新約聖書で完成した | すべて言語化できているのか?

愛の章

コリント人への手紙第一の13章は愛の章として有名です。クリスチャンではなくてもキリスト教式の結婚式では必ず朗読される聖書箇所が記載されています。ここに記載されている愛は神の愛であり、人間の愛ではないと屁理屈こねたくなりますが、御言が未信者の人たちに対して開かれるのはいいことだと思います。

愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、
不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
コリント人への第一の手紙 13:4-7

異言はやむ

その一方で13章は他にもある主張の根拠として使われることがあります。それは13章8節のこの一文です。

コリント人への第一の手紙 13:8
愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。

いわゆる、終止論の立場に立つ方は、この聖書の御言を根拠に「預言や異言はない」とします。一方、継続論の立場の方は、それが完全に終わるのはキリストの再臨と終末的完成の時だと考えています。そのため、これらの聖霊の賜物は現代の教会にも継続して与えられると考えています。

この記事とつながる読みもの

聖書をどう解釈して何を信じるかはひとそれぞれなので、それでいいと思います。今日はそういったことを書きたいのではなくて、別のことについて書こうと思います。

とんでもない作業

それは使徒行伝の時代の弟子たちについてです。現代においては聖書と言えば、新約・旧約があるのが当然です。しかし当時、聖書と言えば旧約しかありませんでした。そこで、弟子たちは聖霊によって示された啓示、奥義、黙示を福音書や書簡などにまとめました。

それはとんでもない作業だったと思います。なぜなら、霊的な世界のことを有限の人間が理解できる言語で表現しないといけなかったからです。当然一人ひとりの人間には限界があり、属性も違います。福音書でさえ、4人が別の角度から書く必要があったほどです。

今はおぼろげ

現代においては新約聖書が成立しており、ある意味、これ以上の書物は必要ではなく完全だと思います。しかし、聖書は明確に
「今はおぼろげにみている」と書いています。それは当然のように思います。宇宙を創造された全知全能の神をわずか数千ページの書物で表現できるでしょうか。できるはずがありません。

だから、このように書かれています。

コリント人への第一の手紙 13:9-10
なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。

僕が言いたいのは、新興キリスト教によくみられる「これこそ新しい真理!」が必要なのではありません。単純に現在は制約された部分的なものからしか主を知ることはできないという事実です。この事実を知るだけで低くなれる気がするのです。ダビデはこういいました。

詩篇 131:1
主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、わたしはわが力の及ばない大いなる事とくすしきわざとに関係いたしません。

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