すべては恵みである
信仰生活を送っていて「救われること」と「その後の信仰生活」は明確に区別しないといけないと思っています。なぜなら、もし明確に区別しないならば、救いを得るのに何か努力がいるように勘違いしてしまったり、反対に信仰生活を送るためには何も努力がいらないと勘違いしてしまうことがあると思うからです。もちろん、すべては恵みであることに違いはありません。
しかし、パウロが信仰生活において賞を得るために何事も節制をすると言っています。また誰にも非難されないために自ら働いてきたとも言っています。彼は誇っているのでしょうか。彼は律法主義なのでしょうか。
保つということは現状維持
驚くべきことに人間が誰もなしえなかった救いを神は無料で提供してくださいました。そして、それを無料で受けるに値しない者に対しても与えてくださいました。これは恵みの他ありません。確かに救いを受けるに何の努力もいらないのです。これは事実です。
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しかし、救いを受けたのちにそれを保ち続けるのは決して容易なことではありません。なぜなら、救いの恵みを受けたとしても再び神から離れていく人は少なくないからです。じゃあ、救いを保っている人はそれらの人と比較して誇ることができるのでしょうか。全くそうではありません。保つということは現状維持に過ぎないからです。
キリストの似姿に変えられる
現状維持の先にはキリストの似姿に変えられるというさらなる高みがあります。きっとパウロはこれを得るために「賞を得るために何事も節制をする」や「誰にも非難されないために自ら働いてきた」など言っているのだとおもいます。
僕は自身の信仰生活において「二心でちょうどいいやん」と思っていた時期がありました。日曜日は教会に行って恵まれる、満たされる、それ以外の月曜日から土曜日までは自分の好きなことをしてこの世を楽しもう!と本気で考えて生きていたのです。しかし、このような信仰生活の中にあったのは、「満たされない」「後ろ髪がひかれる」「罪悪感がある」「こんな歩みでいいのか」「僕は変えられるのか」という不安な気持ちでした。つまり、何も心は自由ではなかったのです。
回復していく
しかし、「平日も主と共に歩む」と心に決めてから少しずつ、二心の信仰から解放されて少しずつ回復していくのを感じました。僕は再び本気で現状維持ではなくて「キリストの似姿に変えられたい」「いつも主と共に歩みたい」「主が喜ばれることをしたい」「自分を捧げたい」と思うようになりました。そう思ったら、パウロの言葉が自分に強く響いてきたのです。
コリント人への第一の手紙 9:25
しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。
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