神はいつも共にいてくださるのになぜ近づく必要があるのか? | 甘えの信仰

神に近づきなさい

ヤコブの手紙には「神に近づきなさい」と書かれています。神はインマヌエルの神、われらと共にいる神なのになぜ近づく必要があるのでしょうか?神はずっとそばにいてくれるのではないのでしょうか?近くにいる存在に対して近づくとは一体どういうことなのでしょうか?

ヤコブの手紙 4:8
神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。

神は確かに共にいてくださるお方です。たとえ神に対して心を閉ざしている状態であっても、神はドアの外に立って開けるのを待っていてくださっています。また、神と共に生きると望む者に対しては神のご臨在を表してくださいます。

個人と教会

共にいてくださっているにもかかわらず神に近づくということについて二つの側面があると思っています。一つは個人的な祈り、聖書によって近づくことと、教会における礼拝、交わり、奉仕によって近づくということです。もしかしたら、ある人は「神はいつも共にいてくださるから一人でもいーもん!」という方がいるかもしれませんが、聖書を読めばそれが聖書的ではないということがわかります。

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神が教会を建てたにもかかわらず、教会なしで聖書を信じて生きるということは矛盾しています。また、普通のクリスチャンであれば、自分はとても一人で信仰生活を生きることはできないと自分の弱さを認めるものです。兄弟姉妹の祈り、助け、交わりが必要なのです。

深く知るために

もう一つの側面は共にいてくださっている方を深く知って近づくということです。たとえば、家族はいつも共にいます。しかし、それだけでは家族の絆は決して強くなりません。まずは家族の絆を強くしたいという決意から始まります。そして、一緒に出かけたり、遊んだり、時間を過ごしたり、会話をすることでお互いをさらに深く知ることができます。

僕は「神に近づく」という表現もこれに似ていると思っています。確かに神はいつも共にいてくださっていますが、会話、交流、やりとりがなければ本当に「共にいるだけ」の関係になってしまいます。それを夫婦関係でいえば、仮面夫婦のようなものでしょう。

甘えの考え

これは自分に対して書いています。僕は「神が共にいる」ということに甘えて、逆に神を放置してきたんじゃないかと思います。神さまが求めておられるのは確かに近づくことです。交わり、会話し、交流することです。

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