多くの教派
キリスト教には多くの教派があります。これらは同じ聖書を信じています。つまり、罪、十字架による贖い、復活などキリスト教の幹の部分では共通しているものの、どこを強調するか?何を大切にするか?という枝葉の部分で異なります。枝葉ではなく、幹で一致したらいいじゃないか?とも思いますが、枝葉の部分こそがその教派のアイデンティティであり、伝統であり譲れない事情があるのです。
枝葉の部分は実際には神学や教義に落とし込まれて実際の信仰生活に落とし込まれています。僕はこのような事情をこのように理解しています。
最高法規
日本には憲法という最高法規があります。これは聖書にあたります。しかし、憲法を法律、法令、規則、条例と抽象から具体、つまり実際の運用に落とし込んでいく段階ではその解釈が少しずつ変わることがあります。
たとえば、中国の憲法では信教の自由が認められています。それにもかかわらず、中国ではキリスト教に対して迫害が起こっている地域があります。これはなぜでしょうか?それは憲法はあるが宗教事務条例という条例しかないため、運用があいまいになっているのです。そのため、ある地域では弾圧が激しいですが、ある地域では自由に活動しているといった違いが出てきます。
多くの解釈
僕はついこの間まで聖書だけで十分ではないか?と安易に考えていました。しかし、聖書は多くの解釈ができてしまいます。それゆえに強調されるべき点も多種多様であり、それが純粋なキリスト教信仰に大きな影響を与えることも事実です。
だから、ようやくこの年にして神学、あるいは教義といったものが非常に大切であり、そしてそれが自分の信仰生活、姿勢、考え方、行動に大きな影響を与えると思うようになりました。今ですと、聖書だけではなくて神学も教義も学ばないといけないと思っています。
聖書を学ぶ
僕はこれまでどちらかと言えば、祈り、礼拝、賛美、伝道といった側面を中心に信仰生活を送ってきました。しかし、聖書にこのようにあるとおり、聖書を学ぶことも同じように重要であると今更ながらに教えられました。
使徒行伝 17:11
ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。
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