現存の体験
昨日は、ブラザーローレンスが「普段の祈りや礼拝における主の臨在と日常生活におけるそれとでは何の違いもない」と言ったように、日常生活のあらゆる場面で主の臨在、現存の体験をするために心がけていることを書きました。僕にはまだまだ霊的な訓練が必要で、いつかはそのような状態になりたいと思っています。
まだその成長の途上にありますが、救われた当時と比較すると、主の現存の体験は僕にとってより日常的になってきているとは感じています。
集会における主の臨在
というのも、救われた当時は集会や賛美や礼拝や祈りの中で主のご臨在を体験することが多かったからです。つまり、自分で何か働きかけて能動的に主のご臨在を体験するというよりも受身で与えらえた環境で神の家族と共に主の臨在にあずかる側面を体験していたのです。
これは正しいことで、今も自分にとって必ず必要だと思っています。やはり教会で先生や兄弟姉妹と礼拝するのは、この上ない恵があります。僕は集会が大好きです。しかし、成長とともに、たとえ一人でいても主のご臨在を体験できるようにもなってきました。
一人でいる時の主の臨在
ブラザーローレンスは柴を一本拾い上げることにすら主のご臨在を体験した猛者の信仰者でした。僕はそのような状態ではありません。しかし、一人部屋にこもって祈るときに深い主のご臨在を体験することはできるようになってきました。
一人部屋にこもって御言と祈りに専念する時に主が確かに生きておられ、今僕と共におられるのを感じます。そして、主に愛されていることを知り、主の恵みと憐れみに触れて感謝が溢れます。
感覚は重要じゃない
ここで強調しておきたいことがあります。それは僕が決して何か感じることを欲しているわけではないということです。たとえ何か気分がよくなることがなかったとしても、それは僕にとっては関係がないことです。それらは感覚的なことです。信仰によって主が共にいてくださる以上、そういったものは最重要項目ではありません。
しかし、その一方で主は確かにご自身がおられることを霊を通して感覚によって教えてくださることもあります。それは主が生きておられるからです。生きておられることを霊によって体験することができるのはごく普通のことです。
365日24時間
魂が救われたときに死んでいた霊が生き返りました。それは神との和解です。今はまだ、365日24時間、主と共にいることを体験できていませんが、天国に行った時にはそれが真に実現します。僕はそれを楽しみにしています。













