普段の祈りや礼拝における主の臨在と日常生活におけるそれとでは何の違いもないという状態 | 現存の体験

現存の体験

ブラザー・ローレンスの著作を読んでから日常生活において主に意識を向ける訓練を続けています。もちろん、以前からも職場でトイレに行ったりする些細なタイミングで主に意識を向けたりすることはしていました。しかし、ブラザー・ローレンスの「普段の祈りや礼拝における主の臨在と日常生活におけるそれとでは何の違いもない」という言葉を知ってからもっと深さがあるのだと思うようになりました。

この訓練を受ける中で少しずつ主のご臨在とともに生きるためのコツがわかってきました。

御言

一つ目は、誰でも思うことだと思いますが、御言です。日常生活のふとした合間に御言を黙想したり宣言したりすることで主のご臨在を味わうことができます。この時に大切なのが、御言を覚えていれば覚えているほど、日常生活における主のご臨在の深みに入っていけるということです。

具体例を挙げます。例えば職場に聖書をもって行って、職務中に聖書を開いて聖書を読むというのはNGでしょう。それがたとえ30秒であったとしてもそれを見た同僚はあなたがさぼっていると思います。しかし、ちょっと一息つくタイミングで覚えている御言に思いをはせ、主を賛美することは何の問題にもなりません。同僚はあなたが何を考えているかわからないからです。

祈り

もしかしたら、ある人は「職務中にそんなことを考えるなんて勤勉じゃない」と思われるかもしれません。しかし、職務中のふとした時に「今日は晩御飯に何を食べようか」とか「あれをしないといけない」とか意識がほかに行くことは当たり前のようにあります。当たり前のようにあるからこそ、その時間を御言を黙想する時間に使えばいいのではないかと思っています。

二つ目は、祈りです。それはシンプルな祈りです。ただただ心の中で「イエスさま」と語りかけるような祈りです。そのほか、「主よ、感謝します。」「主よ、あなたは私のすべてです。」「私のものはすべてあなたのものです。」「あなたは恵み深いおかたです。」のような短いフレーズを声に出したり、心の中で祈るのです。

賛美

三つ目は賛美をすることです。僕は受身よりも能動のほうがいいと考えているので賛美をYouTubeで聴くよりも自分の口で賛美することのほうがいいと思っています。YouTubeには完璧に録音された美しい賛美を再生できますが、誤解を恐れずに書けば、聴くだけで恵まれた気になってしまう可能性もあるからです。もちろん、悪いといいたいわけではありません。ただ、アブラハムの時代には録音技術がなかったので、彼はおそらく自分の口で主を賛美していたと思うからです。

僕はまだまだ「普段の祈りや礼拝における主の臨在と日常生活におけるそれとでは何の違いもない」というような領域に達していませんが、24時間365日主の臨在と共に生きられるようになりたいと思っています。

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