努力は自分から出るものではなく主から出るもの | 大反省

努力すること

1週間ほど前から僕はパウロの言葉を引用しつつクリスチャンとして努力することや奮闘することについて何度も書きました。これは決して誰かに向けて書いているわけではなくて自分自身に対して書いていたことでした。しかし、それについて書きすぎるあまり自分の中で若干の違和感も覚えるようになりました。

そして、最後のほうは決してやらされる努力ではなく、主の愛に答えたいという奮闘する気持ちこそが大切だという結論で数日続いた努力に関する内容を終えています。

努力の罠に陥った

自分が書いた言葉はそのまま自分に返ってくるどころか2倍、3倍になって返ってくるのが常ですが、僕は案の定、努力の罠に陥ってしまいました。それは、あれだけ書いておいてなんですが「しんどいなぁ」と思うようになったのです。

おおよそ3日ほど「しんどい」と感じる日々を過ごしました。しかし、主に立ち返って祈る中で、あるべき姿を主から教えていただきました。それは、「主が助けてくださらなければ僕はわずかの努力すらすることはできない。そして、主のために奮闘したりすることができるのは主からの恵みであり、賜物である。」ということでした。

主からの賜物

僕は努力について書いていた時に、確かに恵みと書いていましたが、あくまでの主の愛に応えるという自分が大きな主語になっていたことに気づきませんでした。しかし、正しい姿勢は主から出ているのです。それはこの御言にも書かれています。

ヤコブの手紙 1:17
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。

もし、奮闘することや努力することも主からの賜物でなければ、僕は自分を誇ることになっていたでしょう。決して誰かに誇ることはなかったとしても主の前に自分を誇っていたかもしれません。「僕はあなたの愛に応えるためにこれだけのことをしています。」というような具合です。

愚かな人間

しかし、そのような姿勢では主の恵みからもれてしまっていることは明らかです。そして僕は確かに疲れてしまい、自分で書いていたように律法主義に陥ってしまっていたのでした。なんと愚かな人間でしょう。

しかし、主は僕の霊を衰えさせることで僕が正しい位置にいないということを教えてくださいました。自分に対してもう一度書きます。

「主が助けてくださらなければ僕はわずかの努力すらすることはできない。そして、主のために奮闘したりすることができるのは主からの恵みであり、賜物である。」

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