1953_なぜクリスチャンが「努力」しないといけないのか? | すべて恵みだろう?

なぜクリスチャンが「努力」か?

先日から「努力」について書いてきました。ただ、「努力」という言葉を使うべきであったのかについてずっと考えています。なぜなら、キリスト教という文脈において「努力」という言葉はセンシティブであり丁寧な説明が必要だからです。

まず、大前提としてキリスト教の救いに関して努力は不要です。罪の赦し、永遠のいのちを得ることに関して努力は不要です。じゃあ、なぜクリスチャンが「努力」しないといけないのか?という疑問が起こります。

救いを得ることとキリストの似姿になること

それは、救いを得ることとキリストの似姿になることは全く別のことだからです。イエス様が救い主であると心に信じて、口で告白するならば誰でも救われます。これは恵みです。なんの努力もいりません。

必要とされるのは、嘘偽りのない真実な心、へりくだった心、悔いるだけではなく改める心、また、神様に対して開かれた心です。これらがあれば本当に何の頑張りも努力もなしに救われるのです。

これは僕自身も経験したことでした。そもそも努力が不要どころか、主は僕がまだ罪びとであった時にすでに愛してくださっていたのです。努力など必要なはずがありません。

競技としてたとえる

しかし、救われたあとは間違いなく「努力」が必要になるでしょう。それは聖書がそのように言っているからです。

申命記 6:5
あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。

また、パウロは信仰を競技としてたとえてもいます。彼は手紙の中で、奮闘、苦労、汗を流して働く、ひたすら前進する、熱心に励むなど多くの表現を使っています。彼によればそうしなければ失格者になることすらあるということです。

これはこのようにも言えると思います。救われる人は多いが最後の天国まで走りぬく人は多くはないという非常に厳しい事実です。確かに主は狭い門から入りなさいとおっしゃいました。

最後まで走り続ける

このような聖書の言葉は何の迫害もない相対的に豊かな国にいる僕を震え上がらせるのに十分です。ようは、信じたからそれでは終わりではないのです。その救いを失わないように最後まで走り続けないといけないということです。

そして僕は自分が教会にさえ行っていれば、その救いの条件が満たされているとは思いません。僕自身も最後まで救いを失わないように奮闘、苦労、汗を流して働き、ひたすら前進し、熱心に励む必要があると思っています。

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