救いが奪われる
昨日は救い、罪の赦し、永遠のいのちを得るために努力は不要と書きました。しかし、キリストの似姿になること、神を愛すること、また救いを持ち続けるためには努力が必要であると書きました。
それにはいくつかの理由があります。第一に悪魔が僕たちの救いを奪おうとしてくるからです。この救いは努力なしに得られますが、努力が不要で無償だからだと言って価値がないわけではありません。むしろ全宇宙でもっとも貴重なキリストの血潮の代価によって与えられたものです。
当然、お金では買えるはずもありません。この救いの本当の価値を知っている悪魔はこの救いを奪いたくてたまらないはずです。
永遠の命こそが最重要
僕はこの御言を思い出します。
マタイによる福音書 16:26
たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
つまり、永遠の命こそが最重要なのです。何も全世界を手に入れると大げさに考える必要はありません。ただ、日常の自分の小さな欲望を優先するような生き方が、少しずつ方向を変えていってしまう危険があるということです。
僕は自分の日々の選択が永遠の命を損することにならないか気を引き締めないといけないと思っています。
下りのエスカレーター
第二に走り続けないと現状維持のままになってしまいます。つまり、歩いていても現状維持なのです。止まってしまえば退化、バックスライドします。なぜそう言えるのでしょうか?それは日常の引力が常に働いているからです。これは下りのエスカレーターを歩いて上ることと同じです。
走り続けないと日常の引力にもっていかれてしまうのです。どれほど恵まれた集会に参加しても、どれほど有名な先生の礼拝に参加して魂が恵まれて悔い改めたとしても、数日後には日常が待っています。そして、その地上の引力は24時間365日稼働しています。
神様の特別な祝福
第三がもっとも重要です。これは大いなるパラドックスですが、不思議なことに奮闘し続けることこそが恵みであり、祝福だからです。たとえば、福音宣教で空中戦をしていてもそういった恵みや祝福はあまりないでしょう。
しかし、最前線で大量の時間を投入し人間関係の中に入って苦しみ、確かに汗を流して奮闘する時に、それをした人にしかわからない神様の特別な祝福があるからです。
ヨハネによる福音書 2:9
料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで












