1955_通知に心を奪われる日に主の声へ戻る | 雑音の中で祈りを取り戻す

使徒行伝の時代に起こった出来事

僕は使徒行伝の時代に起こった出来事が、当時あるいはそれからしばらくしてから終わったとは考えてないタイプのクリスチャンです。終わったと考える人は停止説、今も起こりうると考える人は継続説の立場にそれぞれ立っています。

その論争については神学者に任せます。そのため、僕個人では、「では、どうすれば使徒行伝の時代のようなクリスチャンとして歩めるのか?」を自問することにします。

正直に受け止める

そしてその前に僕は停止説の人たちが言うこういった言葉を正直に受け止めなければなりません。「なんだ、お前の生き方のどこが使徒行伝なんだ?まず、お前の生き方の聖さによってそれを見せてくれ!」

そのとおりです。僕は継続説に立っていながらもその生き方が継続説になっていないということを認めなければなりません。僕は悔い改めなければなりません。また霊的訓練を継続しなければなりません。またそれと当時に当時の生き方から学ぶこともしなければなりません。

認知が奪われ続ける時代

まず当然の大前提として、当時と今は全く違います。今は認知が奪われ続ける時代です。昔は「テレビやゲームは人を馬鹿にする」と言われていました。今から思えばかわいいものです。テレビやゲームはそれ自体から能動的に僕たちから認知を奪うことはしません。

今はSNSが積極的に認知を奪ってきます。僕自身、気をつけないといけないと思っていても未だにSNSやYouTubeで想定外に認知を奪われて時間を溶かしてしまうことがあります。つまり、使徒行伝の時代のように主と親密な関係を歩みたいのであれば、こういった認知を奪うものに対して対処しなければなりません。なぜなら、奪われていた認知を主に向ける時に霊的な生活は変わると思うのです。

具体的な対処方法

具体的な対処方法の一つ目は、ヨセフの方法です。それ自体を避けるという方法です。スマホからそういったアプリを削除する方法です。僕はこの方法でTwitterやInstagramやThreadsを消しました。これでだいぶ霊的なQOLが上がったと思います。

二つ目の具体的な方法は刺激と反応の間に自問を置くというものです。これはYouTubeに対して使っている方法です。というのも、僕にとってYouTubeは説教を聞いたり、筋トレ動画を見たり、英語学習をしたりしているので、インストールできない存在になっているからです。削除してしまったら、そもそもの生活習慣がなくなってしまう可能性があります。

そこで、やるべきことはこれです。「お!この動画面白そうだな?」と思ったら、「これは肉が欲しているのか?霊が欲しているのか?」と自問するのです。あるいは「これをみたら、肉が活性化するか?霊が活性化するか?」と自問するのです。もちろん、肉や霊関係なしにニュートラルなものもあるでしょう。

しかし、まずこのように自問することによって、それが自分にどのような影響を与えるかが頭でわかるようになります。あとは祈るだけです。「僕はこの目の前にあるコンテンツに対して無力であることを知っています。しかし、あなたはそれに対してNOという力を与えてくださっています。」そして、そっとアプリを閉じるのです。

使徒行伝の時代のように

僕は霊的修業がまだまだ足りていないのでこんなレベルからするしかありません。しかし、自分が聖められていくときに、決して条件付きだとはおもいませんが、使徒行伝の時代のように自分が生きられるのではないかとあきらめずに生きています。

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