1948_救いは神の憐れみによる | しかし、信仰の進歩には「努力」が必要

神の憐れみ

ここ数日、信仰生活には努力が必要であることを書きました。少なくとも昨日よりも1mmでも進歩しようと思うだけでも努力が必要になります。しかし、こういったことはクリスチャン界隈では非常に書きにくいです。なぜなら、多くの人は恵みによって救われるがゆえに、努力を強調すると律法主義と思うことが多いからです。

しかし、ここで明確に線を引かなければなりません。まず大前提として救いは恵みによって与えられます。それには何の努力も不要です。キリストの十字架の血潮によって無償で与えられられるものです。これは神の憐れみのほかありません。それはこの御言に明確に書かれています。

ローマ人への手紙 9:16
ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。

努力しようではないか

しかし、信仰生活における戦い、霊的訓練、修行、進歩、聖化などに関しては努力が必要だと感じています。そのことに関してパウロは何度も「努力」という言葉を使っています。

ヘブル人への手紙 4:11
したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。

コロサイ人への手紙 1:29
わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである。

テサロニケ人への第一の手紙 2:9
兄弟たちよ。あなたがたはわたしたちの労苦と努力とを記憶していることであろう。すなわち、あなたがたのだれにも負担をかけまいと思って、日夜はたらきながら、あなたがたに神の福音を宣べ伝えた。

テサロニケ人への第二の手紙 3:8
人からパンをもらって食べることもしなかった。それどころか、あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、労苦し努力して働き続けた

努力が強調されすぎるのは怖いので何度も書きますが、救いは悔い改めに者すべてに平等に与えられます。しかし、霊的な賜物や成長、主と同じ姿に変えられることに関しては、努力が必要なのです。

その努力を誇らない

そして、主の恵みによって救われている人は努力しますが、その努力を誇りません。またその努力の如何に頼りません。むしろ、このように告白します。

ガラテヤ人への手紙 6:14
しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。

僕はパウロの努力に比べたらありほどの努力しかしていませんが、僕は自分が愚かな者にならないようにこの御言を告白し、主が働いてくださるのでなけば、すべて虚しい自分の努力を愚かにも誇ることがないように祈っています。

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