1872_日常の表れが主との関係を現わしている不都合な真実 | Zero Angerに挑戦して気づいたこと

主と同じ似姿に変えられる望み

昨日は「主にあって変えられる」ことに関して、下記御言を引用し、主と同じ似姿に変えられるということは怒ることに遅くあるべきであると書きました。それがZero Anger(怒りゼロ)です。

詩篇 103:8
主はあわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。

僕はこれまで「主と同じ似姿に変えられる望み」について真剣に考えてきませんでした。なので、主と同じように怒ることに遅く、絶えず人を赦し続けること、また永遠に続くような忍耐は無視し続けていたのです。クリスチャンなのにです。

イライラする

しかし、僕はもしクリスチャンとして生きるのであれば、自分自身もそのようになりたいと思うようになりました。なにより、自分にはできないが主にはできるという信仰だけはいっちょ前にありました。しかし、その信仰をその分野に対して使おうとしてこなかったのです。僕の中には甘えの思いがあり、「これは自分の個性だから、気質だから、資質だから、無理だから、だって人間だもの」とあきらめていたのです。

ただ、実際の生活に怒りゼロを導入しようとしたとたん、あるべき姿と現実の差に本当に絶望するようになりました。家で一人でゆっくりしているならばいいでしょう。しかし、仕事で業務や作業が増えたり、家庭で子供や嫁さんとの関係でイライラすることをなくすことは思っていた以上に難しいことだと感じたのです。

自分自身の姿

僕はとても些細なことでイライラしてしまっていることに気がつきました。「なぜ、こんなことでイライラしてしまうのだろう」、「なぜ怒りたくないのに怒ってしまうのだろう」僕は自己嫌悪に陥るばかりでした。しかし、先日も書いたようにこれは霊的な戦いであると覚悟するようになりました。自分では到底できない。だから主の助けが必要だと切に願うようになったのです。

僕はまだこの訓練の途上にいます。はっきりとわかったことは自分自身の姿は日常に現れるということです。そして、その表れこそが自分とイエス様との関係を現わしていると思ったのです。

人には不可能

人間には怒りゼロ、絶えず人を赦すこと、永遠の忍耐は不可能です。もしそれができるなら人は神になるでしょう。しかし、聖書ははっきりと神の性質にあずかることができると書いています。

ペテロの第二の手紙 1:4
また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。

僕が今切に願うことはこれだけです。

ユダの手紙 1:20-21
しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、
神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

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