人の前に立つ奉仕
人の前に立つ奉仕をする中で気づいたことがあります。それは奉仕をしている時の自分が本当の姿ではないということです。たとえば、賛美の司会とかCSや小グループでの説教などをする場合、非常に恵まれることがあります。主に愛されていると強く感じることもあります。
奉仕をする中でそのように感じるのは油が注がれているからです。そして、油が注がれるかどうかはその人がどうかは関係のない場合があるということです。もちろん、
祈りつつ神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望む姿勢が関係がないというわけではありません。
主の憐れみとゆるし
ただ、たとえそのような姿勢や霊性が必ずしも高くなくても、あるいは、主との深い交わりの中にいなかったとしても、ただ主の憐れみによって油が注がれるということがあるのです。それは、ただ主がその礼拝に参加する人やCSのメンバー、小グループのメンバーを愛しているからです。その人たちに主は栄光を現わしたいので、油を注がれているにすぎない場合があるのです。
これは恐らく人の前に立つ奉仕をしたことがある人は誰でも経験したことがあると思います。実際は主の憐れみとゆるしによってさせて頂いているにすぎないということを思い知らされます。
非常に恐ろしい教訓
聖書の人物でそれを現わしているは、サムソンでしょう。彼は油注がれた者でした。何かあると主が栄光を現わすために、ただサムソンのためではなくイスラエルの民を救うために聖霊が激しく彼に臨むことが多くありました。
しかし、その彼は必ずしも主と共に歩んでいませんでした。これはクリスチャンにとって非常に恐ろしい教訓です。
平日の自分
本当の自分の姿は平日の自分です。今日一日どのように過ごしたか?24時間、睡眠を除いた時間をどのように感じ、思い、目指し、自制し生きたか?それが自分の本当の姿です。僕は愚かながら20代前半の時は油注がれている時の自分が本当の自分の姿だと大いなる勘違いをしていた時期がありました。
しかし、そのような姿勢でた時は次第に間違った道に自分が進んでいくのを感じました。主との深い交わりを失い、何のために奉仕をしているのかがわからなくなってしまったのです。
奉仕は主の赦しの中でさせていただくものです。そして、その動機は主との深い交わりの中から生まれる愛を基とする、それが正しい信仰生活であり姿勢だと思わされています。












