人を祈りに向かわせるもの
先週末センター試験が終わりました。おそらく多くの日本人が学問の神様などにお参りに行ったことでしょう。受験中は誰にも頼ることができず、すべて自分にかかっています。しかも正真正銘の一発勝負です。いくら自信があったとしても、その日の体調や調子によって結果が左右されるかもしれません。また、苦手な設問が出る可能性もあります。何かと不安が多いのが受験だと思います。
受験だけでなく多くの場合、苦難や試練は人を祈りに向かわせます。人知を超えた存在の助けがほしいと思うのは本能的なものだと思います。なぜなら、人間はこれまでに多くの神を造ってきたからです。たとえ、それが人間の支配下にある動物であったとして、神として崇めるほどに求めたのです。
神は求める者を求めておられる
僕自身、苦難や試練の時に神に祈る事が多いです。聖書には「悩みの日に私を呼べ。私はあなたを助け、あなたは私を崇めるであろう。」と書かれているので、それは神の御心です。神は心を尽くし、切に求める者に必ず報いてくださるお方だからです。
しかし、もし苦難や試練の時だけ祈って、順境の時は祈らないというのはまた違うと思います。最近思うのは僕が神様に祈るのは、神の御心と現実にギャップがあるからだと思うようになりました。
ギャップを知ること
聖書は、「神の御心が天で行われるように、地上でも行われるように」と祈るように教えています。この世である地上と天のギャップがあるので、地上でも御心が行われるように祈るのです。そのギャップがあるところは自分の周りのことかもしれません。また自分自身のことかもしれません。
気をつけないといけないのは、そのギャップがわからなくなることです。もし、そのギャップがわからなければ神に祈る必要性もわからなくなってしまいます。「世の中こういうもんだ」とか「だって人間だもの」で片付けてしまうようになってしまいます。
ギャップを知り続けるために
ギャップを認識し続ける方法はたった一つしかなくて聖書を読むしかありません。そして、読むだけでなく読み続けなければなりません。そうしないと、あっという間に世の引力に負けてしまって神の御心と現実のギャップが不明瞭になってしまうからです。
聖書を読むと自分がいかに小さいかがわかります。小さくて弱くて卑しい存在だとわかります。しかし、それを知って卑下して終わりじゃないのがキリスト教の醍醐味です。
すべてに満ち満ちたお方であるキリストが心の中に住まわれる時に、主の大きさ、強さ、栄光を知ることができるのです。だから、聖書を読み続けて、御心と現実のギャップをはっきりとしり、祈り続ける者になります。