1436_「神を第一としましょう」とは具体的にどういうことなのか?

神第一

もし、説教で「神を第一としましょう」と語られたら、もしかしたら「わかっている」と言いたくなるかもしれません。しかし、当然、「わかっている」と「できている」は全く違います。また、もしかしたら、「できている」と思っているだけでできていないこともあるかもしれません。

僕自身は未だにこの「神を第一にする」という信仰生活の土台にも乗れていないと感じています。つまり、わかっているだけでできていないのです。その理由としては、朝の時間を主にお捧げできていないからです。聖書を読み、祈り、主との交わりの時間は朝にこだわる必要がないという意見もあるかもしれません。しかし、その日一日において「神を第一にする」ということはその日の最初の時間を主に捧げることだと思うのです。

主が教えてくださったこと

自身のこの状況は、朝の時間を主に捧げられていないのではなく、そもそも主に捧げる気がないというのが正確な表現になります。僕にはその気がないからできていないだけなのです。その自覚がある中で主が一つ教えてくださったことがありました。それは何かに取り組む前に聖書を読むということです。

最近は試験勉強をしていますが、限られた時間でしか勉強できていないため合格できるか非常に微妙な瀬戸際にいます。自分の時間が確保でき次第すぐにノートと参考書と問題集を開いて着手したい気持ちが出てきますが、先日は、まず主にこの時間をお捧げしようと思いました。

主と共にいたい

参考書を開く前に、聖書を開き通読の箇所を読み、祈りそれから勉強をしました。実はこれは僕が18歳の浪人生活の時にしていた生活スタイルでした。当時はまず、勉強の時間も主にお捧げしたい、そして勉強する時も主と共にいたい、という思いからこのようなことをしていました。

そして、実際主と共に勉強をしたほうが魂が恵まれるどころか勉強の集中力も高まるということを体験したのです。念のため書きますが、勉強する前に主に近づくのは勉強の効率を上げたいという思いからではありません。主に礼拝を捧げて、主と共にいたいという思いからです。

生活のあらゆる場面で主を第一

これは「主を第一にする」の一つの具体的な参考になります。なぜなら、生活のあらゆる場面で主を第一にするということはこれと似たようなことだと思うからです。何をするにもまず主を第一とするというのはこういうことだということを再び教えていただいた気がしました。

何かをする前に祈る、また何かをし終わった時にも祈る。そういったことを日常の様々な場面で実践してくことが「主を第一にする」ということなのだの今更ながらに思いました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)