025_価値のあるワンチャン

子供の頃、よく遊戯施設に行って、わずかなお小遣いで長く遊べるメダルゲームばかりしていました。100円玉をメダル11枚に交換して、競馬ゲームで遊ぶのです。

放課後、こどもたち十数人がぐるっと、競馬場を模したテーブルの周りに座り、メダルを投入して、ボタンで順位を予想して、いざ、かけが始まります。

一攫千金(?)を狙って、手持ちコインすべてをかけて、いわゆる、ワンチャンを狙うこともよくありました。僕の場合は、勝負に出た結果、失敗して、無一文になって、ただみんなが遊ぶのを眺めているだけの時もありました。

元々は麻雀用語である「ワンチャン」。 こちらでは「勝敗を賭けた一回のチャンス」という意味が強いのですが、最近の若者は少し違った意味で使っているようです。 このように「ワンチャン(もしかしたら)行ける」「ワンチャン(ひょっとしたら)あるで」など、「可能性がある」という意味で使われるそう。

引用元:woman.excite.co.jp

当時はワンチャンという言葉は知りませんでしたが、子供ながらに、「もしかしたら、ワンチャンいけるんじゃね?」という思いがあったんだと思います。大人になってからも、ワンチャンを狙う機会はありましたが、ほぼ、100%の負け率でした。

聖書の人物でワンチャン狙った人物といえば、サムソンが思いつきます。彼は、神に捧げられたナジル人として育てられた怪力の持ち主で、神の力によって、向かうところ敵なしの存在でした。しかし、誘惑に負けてしまい、自ら力の秘密が天敵ペリシテ人にばれてしまい、神の力を失い、あっけなく捕獲されてしまいます。

その後は、両目をえぐられ、青銅の足かせをつけられ、牢獄で挽臼を引かせられるという、北斗の拳の描写で出てきそうなポストアポカリプス的な拷問にあわせられてしまいます。ある日、牢屋から出さされて、ペリシテ人の前で「戯れ事」をさせられます。

そんな中、彼は罪を犯したことを悔い改めて、神に祈ります。

サムソンは主に呼ばわって言った、「ああ、主なる神よ、どうぞ、わたしを覚えてください。ああ、神よ、どうぞもう一度、わたしを強くして、わたしの二つの目の一つのためにでもペリシテびとにあだを報いさせてください」。
士師記16:28(口語訳)

「どうぞ、もう一度」という彼の祈りは聞かれ、サムソンの「人生の勝敗を賭けた一回のチャンス」であるワンチャンの思いは神に届き、ペリシテ人が大勢集まる宴会場の柱2本を両手に抱えて身に寄せて、宴会場を崩壊させて、自らペリシテ人と共に死ぬという壮絶な最後を遂げます。

聖書には、サムソンが死ぬときに殺したものは、生きているときに殺したものよりも多かったと記載されています。彼が悔い改めたことによって、神の力が再び彼の上に働かれました。

このように、もし、悔い改めるならば、神様は哀れんでくださって、共にいてくださいます。もし、万事休す、四面楚歌状態にあっても、聖書の神様を信じるならば、決して失望に終わることはありません。

そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。
ローマ5:5(口語訳)