中国の家の教会の礼拝中に流れる着信音

中国の教会に通い始めて、既に1年半ほど経過しますが、当初は、中国の家の教会の習慣、雰囲気、また行動様式が日本の教会と異なる所が多く、戸惑うことが多くありました。今まで私が出くわした何気ない中国の教会の風景を少しだけ書こうと思います。

相対的に中国人は携帯電話をマナーモードにしないようです。職場やバスの中などの公共の場所であっても、ガンガン着信音が鳴りますし、持ち主も少しも躊躇することなく電話にも出ます。これは教会も例外でなく、礼拝中は、賛美中、説教中を問わず、至る所で着信音が鳴りまくっています。もちろん、教会側もこれを決して黙認しているわけではなく、放置しているわけでもありません。

司会者は、聴衆に対して、携帯をマナーモードにするように口をすっぱくして言っているし、礼拝堂の入り口にも、注意を促す注意書きがある。しかし、これがなかなか改善されないようです。説教中、説教者が、十字架の贖罪の真理の核心を重々しく語っている時に、ドラえもんのタイトルが発表される時に流れるあの効果音が流れるから、もう気が抜けるも抜けないもありません。

「チャチャチャチャン ホワン ホワン ホワ~~ン」

そして、周囲にいる人が一斉に携帯の持ち主を見ます。持ち主は顔を赤らめて、申し訳なさそうにするかと思いきや、その場でそのまま電話に出るから、本当にたまったもんじゃありません。

先週も、説教中に着メロが鳴り出しました。持ち主と思われる3列前に座っていたおばちゃんが慌てて、かばんを持って礼拝堂の外へ出て行きいましたが、なぜか着信音は会場からなり続けています。周囲の人が不思議に思っていると、おばちゃんがまた慌てて引き返して来ました。どうやら携帯を椅子に置き忘れて出て行ったようでした。もうこうなってくると、まるで吉本のコントを見ているようで、憎めなくなってきます。

もちろん、説教者もこれら妨害に対する便法を心得ているようでして、着信音が鳴ろうが、聴衆が電話に出ようが、全く気にかけてない様子で、声を大きくしたり、声を荒らげたりしながら対応しています。


また、ある時、説教中に、斜め前に座っていたおばちゃんが急に両手を上げ始めました。ちなみに、説教者は聴衆に手を上げるように指示はしていません。

キリスト教ではよく賛美や祈りの時に両手を挙げるスタイルがあります。

私は、彼女が何か霊的なものを感じ取って、それに反応して手を上げているのかなとか思っていました。しばらく、注視していたら、おばちゃんは上げていた手をゆっくり両手を下げ、おもむろに腕を組んで頭を下げ静かに目をつぶり、説教中にまさかの寝る姿勢に入りました。もちろん、外からの情報だけでは、彼女が睡眠モードに入ったのか、もしくは、黙想モードに入ったのかは分かりません。ただ、あれは確実に睡眠モードに入っている姿勢だと思います。仮に「街の人100人に聞きました」形式で、100人に「彼女の姿勢は何を示しているのか」と問えば、96人くらいは睡眠モードの姿勢だと回答すると思います。


また、ある時、説教者がダニエル書に記載されているシャデラク、メシャク、アベデネゴが燃え盛る高温の炉の中に放りこまれる箇所から説教していました。私は当時、前から2列目の席に座っていましたが、急に鼻が何かが燃えているようなにおいを嗅ぎ取りました。周辺にいた人たちもその異変に気づき始め、辺りを見回し始め、ざわざわしてきました。一方、説教者はそれに全然気づかず説教をし続けています。これはそろそろ、逃げたほうがいいんじゃないかと思い始めた時、説教者がようやく異常に気づき、ニコニコしながら放った一言が忘れられません。

説教者
燃える炉の話をしていたら、ちょうどいいタイミングで何かが燃えるにおいがしてきましたね。神様に感謝します。

聴衆はまったく笑っていません。会堂を管理する人たちが急いで対応に回り、原因追求に当たったようでしたが、幸い、集会は何事もなく無事終わりました。以上のような具体的例を挙げ始めればきりがありません。


礼拝中の着信音に関して言えば、雰囲気が台無しになることが多くあるので、信徒のマナー向上は必須だと思います。もちろん、人が集まるところは、一定のルールが必要で、それによって秩序が保たれ、平和で、効率的で、心地よい社会生活を営むことができます。

神は無秩序の神ではなく、平和の神である。

ある人は、秩序が保たれることが、社会の成熟であり、文明の発展であり、先進国に生きる人の当然の行為と言います。もちろん、礼拝に秩序は絶対に必要だと思います。でも、大昔の礼拝風景を勝手に想像してみるに、恐らく、礼拝中に、猿がキーキー鳴いたり、ゴリラはほえる。ある時は、鳥の糞が説教者の頭の上に落ちてきたりしたかもしれません。また、いのししが森から出てきて、集会所に表れたり、鹿の群れが現れたりして、集会が混乱に陥ったことがあるかもしれませんし、とても秩序があるとはいえなかったのかなと思います。

猿がキーキー鳴くと、神の御臨在は消えたででしょうか。説教者の頭の上に鳥の糞が落ちてくると、聖霊は彼から離れたのでしょうか。はたして、神はその礼拝を嫌われたのでしょうか。

もちろん、人為的か自然発生的かの違いはあるにせよ、神から見て、「礼拝の時なにが一番大切か」を考える時に、秩序を保つ以上に大切なことがあるのではないかと思わされた。

私が好むのは哀れみであって、生贄ではない。

カナンの地は今日も輝いています。