中国のクリスチャンにとっての神学について

兄弟
独身のうちに神学は勉強しておいたほうがいい。結婚して、子供ができたら、自分の時間なんてほとんどなくなるからね。

これは先週の水曜日、教会からの帰りのバスの中で、ある兄弟が私に言った言葉です。

キリスト者は同胞のことを男性は兄弟、女性は姉妹と呼ぶ習慣がある。

その兄弟は私が初めて教会へ行った時に、礼拝終了後、いちばん始めに私に話しかけてくださった方です。その頃は、ちょうど中国各地で反日デモが勃発した年で、日本人という身分を公共の場で明かしにくい時でした。兄弟は私が日本人であるにもかかわらず、喜んで教会に迎え入れてくださいました。

兄弟のその喜びに満ち溢れた顔と、暖かい言葉、包容力、気遣いは、まるでキリストを見ているようでした。しかも、兄弟は黒縁の分厚いめがねをかけており、私の母教会の初代主任牧師に容姿が非常に似ていたため、私はすぐに、「牧師先生ですか」と聞いてしまったほどです。ちなみに兄弟は教会の主要メンバーであるが、牧師ではありません。

暖かいアットホームな教会。

カオスと欲望の溢れる町で、約7ヶ月間教会へ行っていなかった私は、からっからの荒野の中でオアシスを見つけたような気分になったことを、今でも感謝と感激と共にはっきりと思い出すことができます。兄弟とは帰りのバスが私と同じなので、時々、バス停で出会ったら、一緒に話をしながら帰ります。日常生活のことや教会の奉仕のことなどを話ていた時、彼が冒頭の言葉を言いました。

兄弟は今年55歳で、奥さんもお子さんもいらっしゃいます。今は仕事と教会の実務的な事で忙しく、時間をとって、体系的に聖書を学ぶ時間がなくて、大変惜しいことをしたとおっしゃっていた。実際、教会内のことを色々話を聞いてみると、私の教会には1000名ほどの信徒がいますが、ほとんどが仕事をしながら奉仕をする、いわゆる「非職業的奉仕者」がほとんどだそうです。

多くの人が本当は神学校へ行きたいが、時間的な制約があり、行けないという人が圧倒的に多いそうです。このような事情もあり、教会内には、そのような人たちに対して、聖書研究の講義を多数設けています。

その中で、最も代表的なのが、隔週の金曜日にもたれるモーセ五書の講義です。

モーセ五書とは、モーセが執筆したとされる、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五書のこと。

教会独自の教科書を使用し、小グループのリーダー、CSの教師を中心に一般信徒も参加しています。

小グループ 教会管理の手法のひとつで、教会内の数人から数十人の小規模の集まりのこと。
CS “church shcool” の略称で学生対象の集まり、中国語では「主日学」と言う。

私が所属する聖歌隊にも様々な講義の時間が設けられていて、講義の時間は19時から19時45分までで、それから練習を開始するプログラムになっています。

  • 第一週目は、祈祷会
  • 第二週目は、音楽理論①
  • 第三週目は、聖書釈義
  • 第四週目は、音楽理論②

現在は、ヤコブの手紙から講義をしてくださっているが、講義者は、何もレジュメも見ずに、ただPPTを駆使しながら、話したくてたまらなそうに45分語り続けるから驚きです。極端な一般論で、信仰で何を重視するかと言われた時、その順位を決めること自体が困難であると思われるのであるが、よく言われるのが、

  1. 福音派は聖書重視
  2. ペンテコステは派は祈り重視

というものです。

もちろん、どちらの派も聖書も祈りも重視しているので、あくまでも、極端な一般論だと思います。私の中国の教会内には、福音派の人やペンテコステ派の人が混在していますが、そのうちの大部分は福音派だそうです。もちろん、それぞれが排他的にならず、互いに批判することなく、同じ教会内で共存しています。

信徒の聖書研究に対する情熱は熱く、聖書の言に対する餓え渇きは強いです。そして、その神をもっと知りたいという欲求や、その餓え渇きを満たすために教会は多くの機会を提供しています。聖書研究ばかりで頭でっかちかと思いきや、そうではなく、学んだ聖書の内容を生活に適用、御言を暗唱し、実生活で使っています。彼らの祈りを聞いていて驚かされるのが、彼らは、祈りの中で御言を、武器を振り回すようにガンガン使う。祈りの中で御言を、薬を処方するように優しく使う。祈りの中で御言を、銀のはめ物に金のりんごをはめ込むようタイムリーに使います。

そして、以前も言いましたが、祈りの語彙が豊富で、暗唱できる御言が多いように思います。彼らは、神学校で神学を学ぶことによって、強固な、頑強な信仰姿勢を持つことができ、個人伝道の際、聖書の抽象的な概念を、個々人の具体的事例に適用させて語ることができるようになり、訓練を受けることにより、実生活の中で、相当の攻撃力をもった祈りを身に付けることができるようになると言っています。

できることなら、非職業的奉仕者も神学校へ行きたいが、時間的な制約があって行けないそうです。恥ずかしいながら、私は今まで神学校へ行こうと思ったことは一度もありません。でも、中国へ来て、彼らの聖書に対する姿勢や、神学校に対する憧れ、渇望を知って、「神学校へ行くこと」は一体どういうことなのだろうか。ということを、考えるようになりました。

ここのユダヤ人は、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。

カナンの地は今日も輝いています。