親をさせてもらっている
以前もブログに書きましたが、僕は許されて親をさせてもらっています。なぜなら、そもそも親に子供を躾ける権利などないと考えているからです。大人である自分にはできて、子供にできないことがあるのは当然です。その一点をもってして親に躾ける権利があるとは思いません。僕は子供に対して怒ったりする時、いつも心の中に声が聞こえてきます。
「お前にそれを言う資格があるのか?お前はどうなのか?40歳たる者として躾けられ、成長し、その年齢にふさわしい生き方ができているのか?」
食に対する節制
残念ながら、この心の声に対する答えはNOです。僕は全くもって40歳にふさわしい成熟した大人にはなっていません。身体、精神、霊すべてにおいて年相応になっていないことを自覚しています。
身体においては筋トレこそしていますが、おなかに脂肪が溜まっています。これは贅沢な肉です。食に対して節制できていないのです。このような状態で子供に「好き嫌いしたらだめだよ」という権利がどこにあるのでしょうか。また、精神は言うまでもありません。僕は2歳児です。嫌なことがあると言動に出る、イタイおっさんです。霊においては主がご存じです。
権利はないが責任はある
しかし、生きなければなりません。権利はないですが責任はあります。許されて付与されている責任があるからやらざるをえないのです。しかし、これは捉え方によっては、感謝なことでもあります。
なぜなら、子供と向き合う時に自然と自分とも向き合う必要が出てくるからです。何かを言う時に「間」を与えてくれるのです。つまり、「お前にそれを言う資格があるのか?お前はどうなのか?40歳たる者として躾けられ、成長し、その年齢にふさわしい生き方ができているのか?」という声が僕を底辺に落としてくれるのです。
それにより、僕は子供に対して激昂したり、感情的になったり、理不尽に怒るということはなくなっていると思っています。もちろん、自覚していないだけかもしれませんが。
成長させて下さるのは
親としての僕をへりくだらせる効果があるのです。と言っても、怒る時は怒ります。今は教育上どうかと思われるかもしれませんが、叩くときもあります。それでも、激昂することはありません。
何よりも、へりくだらされる時に、育児は親だけでは到底できない。むしろ、イエス様が必要だと思わされます。確かにそうなのです。人間が霊的な存在である以上、この子供に対してもこの御言が当てはまると思うのです。
コリント人への第一の手紙 3:6
わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。













