今主と共に生きることができている39歳がいちばんいい
先日、39歳になりました。数字で書く衝撃的に思います。それは心はまだ18歳のような気持ちなのに、実際は20歳も上をいっているからだと思います。しかし、衝撃的に思うだけで年を取ることに対してネガティブな気持ちは少しもありません。むしろ、1年、1年を主と共に生きて年をとれることほど幸いな人生はないと思っています。
だから、「あの頃がよかった」とか「あの頃に戻りたい」などとは決して思いません。今主と共に生きることができている39歳がいちばんいいと思っています。
救われる前に精神にしみ込んだ古い考え方
と書きつつも以前はそうではありませんでした。救われる前に精神にしみ込んだ古い考え方が僕を縛っていたのです。それは「30歳以上の大人は信用できない」といった典型的な中二病の症状でした。その縛りをもったまま30歳を迎えた時に僕はもう生きられないとさえ思っていました。なぜなら信用されない側の大人になってしまったからです。
当時はちょうど3年間中国で生活して日本に戻ってきたタイミングでした。大げさに言えば「中国の地下教会に行って、そこで殉教するかもしれない」とさえ思って行っていたので、本当に30歳以上生きるプランを持ち合わせていなかったのです。
主のために生きたい
しかし、主は少しずつ僕の人生を導いて開いていってくださいました。神様にとっても、僕は頑固で非常に取扱いの難しいタイプの人間であったことは間違いないのです。しかし、主が豊かな憐れみの心と想像もできない途方もないほどの忍耐をもって導いてくださったのです。
その主の恵みを体験して、また様々な状況を通らされる中で僕はもう「俺は俺は」はやめようと思いました。これからは「主のために生きたい」と心から思えたのです。
「自分」という混じりけ
以前はクリスチャンとして今よりももっと未熟でした。教会という環境において、福音宣教という大義名分を掲げつつも、内実は自己実現したいというような思想を持っていました。たとえ、それが福音宣教だったとしてもそこに「自分」という混じりけが入っていたのです。
僕が「なんでなんで」と言っていた時期は、そういう混じりけがあったからです。だから、主は用いることができなかったのだと思います。
肉において損することは霊においては得
だから、自分という混じりけが多分に入っていた若い頃よりも、自分に少しは死ねるようになった今のほうが幸せだと思うのです。肉は直感的に自分を捨てること、損することに対して抵抗します。損得でいうのは正しいかどうかわかりませんが、実際は肉において損することは霊においては得なのです。そう思って年を重ねています。