1427_内住のキリストの属性をあたかも自分自身の属性と勘違いする時

主と共に歩むこと

クリスチャンにおける信仰生活とは主と共に歩むことと同義だと思います。それは、主と共に歩むことなくして信仰生活はありえないということです。この主と共に歩むことに関してはいくつかの表現があります。例えば、聖霊に満たされる、御霊に導かれる、イエス様が共にいてくださるなどです。少し年配の方とかですと、内住のキリストといった言い方をされる方もあります。

ペンテコステ以降のこの恵みの聖霊の時代においては、三位一体である神が聖霊としてすべての人の内側に住んでくださるというのが正しい理解だと思っています。

勘違い

この時に注意が必要だと思っています。それは心の中に共にいてくださる聖霊のおかげなのに、主体は自分であるのであたかも自分がそのことをしたと勘違いしてしまうことです。これはサムソンを見ればわかります。彼は主の霊に満たされることで強力な力をもっていたにもかかわらず、聖霊が彼を離れてもなお、彼は力があると思い込んでいたのです。

僕自身はよくこの過ちをしてしまいます。具体性を出します。たとえば、人を愛することや宣教の重荷をもつことは聖霊の働きのほかにありません。愛に満ちたお方が共にいてくださるからこそ、人に関心をもち、愛をもって接することができるのです。それをしているのは「わたし」ではないのです。

私には愛がない

ある人は「私には愛がないんです。」という人に対して、「なんてことだ。主が共にいてくださるのに愛がないなんてそんなことよく言えるな。」と言われるかもしれません。しかし、これは一面、正確に事実を言い表していると僕は思います。確かにこの肉における「わたし」には全く愛などないと思うのです。

愛があるのは、愛に満ちたお方だけです。一方、わたしという主体には愛はありません。内住のキリストには愛があるかもしれませんが、外の土の器には愛はありません。この時、内住のキリストの属性をあたかも自分の属性としてとらえるならばそれはサムソンと同じ過ちを犯すことになるでしょう。

その同じ属性に与らせていただける

ただ愛に満ちたお方が心の内側に住んでくださることにより、私自身もその同じ属性に与らせていただける、それが正しい理解だと思います。だからは僕はいつも「自分には愛がない」と思っています。ただ、それで終わりません。

私と共にいてくださる主は愛に満ちたお方です。そして、このお方こそが素晴らしいお方です。主の恵みはそれで終わらず主の属性にも預からせていただけるのです。

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