1421_心がパンパンで今にも破裂しそう

キャパオーバー

先日久しぶりにキャパがオーバーしそうになりました。もともと僕のキャパはおちょこほどもなく、ペットボトルのふたほどです。だから比較的溢れやすいのです。仕事、家庭、教会などでやることが膨大にあり、もうこれはこなせないと思ってしまったのです。しかし、その時にみことばを思いました。

だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
マタイによる福音書 6:34

理性で理解する以上の霊的な力

このみことばが与えられた時、パンパンで今にも破裂しそうだった心からすぅーと空気が抜けて「神様が共にいてくださる。大丈夫だ。」という安心感が僕を包みこんだのです。このみことばのとおり、今日やることだけを考えよう。そして明日は明日の事に集中しようと思ったのです。その先に一週間後のことは今は考えなくていいと思えたのです。

このようにみことばには確かに力があります。みことばは言語で理解して理性で自分を鼓舞させるというようなものではないと思います。みことばは畑のたとえ話でもあるように、心にまかれて心に働きかけるものだからです。だから理性で理解する以上の霊的な力があるのです。

イエス様が共にいてくださっている

そして、これはこのことにもつながります。それはみことばを行う力を与えられるということです。もし僕に信仰がなかったら、「あすのことを思い煩うな。」と言われても、「思い煩いたくて思い煩っているんじゃない、思い煩ってしまうから思い煩うんだ。無理だ。」というでしょう。

しかし、聖書のことばには「思い煩わないようにする」力があるのです。僕は決して思い煩うことのないイエス様が共にいてくださっているからだと思いました。

おこなう力も与えてくださる

聖書には多くの良いことがかかれています。また聖書以外にもこの世界にはいいことを教えている宗教や道徳や倫理が確かにあります。しかし、イエス様を信じる者にとっては最大の違いがあります。それは「行いなさいというだけではなくて、おこなう力も与えてくださる」ということです。

こういうことを書くと、「じゃあ、お前の日々の歩みは何なんだ。これで行えているつもりか。」という内的な声が聞こえてきそうです。しかし、主はおっしゃいます。その声には耳を傾けないで、「あなたはわたしに従ってきなさい」と。

主が共にいてくださる人生は本当に幸いだと思います。

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