かつての同僚と再会
先日は2年振りに中国の日本語教師時代の同僚に会うことができました。彼と僕は類似点が非常に多く波長があいます。全然気をつかわなくてもいいし、自然体で会話できる数少ない友人の一人です。僕たちのその最大の類似点とは、彼に対しては失礼かもしれませんが、「悪気はないのに知らないうちに誰かを苛立たせている」系の社会不適合者という点です。
彼の近況を聞いているとそれがよくわかりました。たとえば、アパートの住民から苦情が来て追い出されたり、通っていたジムの利用者に因縁をつけられてやめることになったり、面接で面接官をイラっとさせたりする場面があったそうです。これは僕も全く同じです。
イエス様だけは
高校時代は悪気はないのに結構多くの先生に嫌われていましたし、社会人になってからも「なんでお前の会話はいつも変化球でくるんだ」と言われていました。こればっかりは個性や資質、あるいは骨がらみの問題なので、自分ではどうしようもなかったというのが本音になります。
そういう生き方をしている自然と人生における人間関係は縮小していき、気づいたらごく限られた人しか残っていなかったというような状況になってしまいます。僕がここまで生きてこられたのは、「イエス様だけはいつも共にいてくださった」からです。
それでも私は
僕はこれまで人に対してだけじゃなくて、イエス様に対しても知らないうちに苛立たせるようなことを何度もしてきたと思います。僕は神様の憐れみ、慈愛、寛容を逆手にとるつもりは全くありませんが、イエス様はなぜかいつもイライラせずに優しい顔で僕を迎えてくれていたように思うのです。
「わたしはあなたの弱さを知っている。人に受け入れられない苦悩もしっている。それでも私はあなたを愛している。」
新約聖書に登場するザアカイも同じような気持ちであったのかもしれません。
出て行きなさい
僕は今回の友人との再会で教えられたと思いました。それは、ある人にとったら余計なお世話だと思われるかもしれませんが、「確かに苦しんでいる人いて、イエス様の愛を必要としている人がいる」ということです。僕はそういったことに無関心であったことを悔い改めたのです。
今年は人と会うことを目標に掲げていましたが、これは神様から「出て行きなさい」という呼びかけなのだと思いました。