肉には向き合わないほうがいい
昨日は肉には向き合わないほうがいいと書きました。その理由としては肉は見れば見るほど肉が活性化されてしまって、その魅力に引き込まれてしまうからです。だから、そうではなくて、信仰の導き手であり、その完成者であり、命の源であるイエス様を仰ぎ望むと書きました。そうすれば、霊が活性化されて肉が力の力が弱まるからです。
しかし、これは少しわかりにくい表現でもあると思いました。なぜなら、ある一面においては、肉に向き合わないと真実な悔い改めができないからです。臭い物に蓋をするような態度では悔い改めることはできません。
霊によって肉を見る
ですから、今日は別の角度から書きたいと思います。それは肉によって肉を見るのではなくて、霊によって肉を見るということです。これは言いかえれば主の方を向くことによってはじめて正しく肉と向き変えるようになるということです。
もし、肉によって肉を見るのであれば冒頭に書いたようにますます肉が活性化されてしまい、肉々しくなってしまいます。しかし、霊によって肉を見るのであれば、それは神の御心に添うた悔いのない悔い改めに導かれるようになります。
光にさらされると
その理由としては聖なるお方を仰ぎ、聖なるお方に向き合い、対峙することではじめて自分の罪深さが顕わになるからです。光にさらされると暗闇に隠されていたものが顕わになります。
人間は自分の力では自分の罪深さを本当の意味で知ることは決してできません。罪を自覚することも悔い改めも主から示して頂かなければ何もできないものです。
聖霊に満たされる
もし、聖霊に満たされるならば人は正しい態度で肉を見ることができるようになります。それにより、自分の内面の肉の性質に気づくことができるかもしれません。また世俗のコンテンツを見た時に「これから離れよう」と判断することができるかもしれません。
生きた魚が海の中を泳いでいても塩臭くならないように、クリスチャンは聖霊に満たされることによってはじめてこの世の影響を受けずに生きることができると信じます。