非常に有用な言葉
家庭や職場や教会の人間関係の中で生きる上で非常に有用な言葉にこのようなものがあります。
「人の強みを見て弱みを見ない」
この言葉は弱みに付け込み糾弾しようとする人に自制を促します。また寛容な心で相手を受け入れられるようになります。また自分自身も同じく弱みをもっており、誰も人の弱みを追及することはできないということに気づかさせます。
この言葉は決して聖書に書かれているものではありません。自己啓発の古典書を書いたナポレオン・ヒルやデール・カーネギーなどが似たような表現で書いています。
上位概念ともいえる言葉
ではなぜこのような即効性のある有益な言葉は聖書には書かれていないのでしょうか?僕は聖書にもっとこのような具体的な言葉があれば自分の行動を自制させることができるのにと思ったことがあります。
しかし、クリスチャンの皆さんであればご存じだと思いますが、こういった言葉を包括する、上位概念ともいえる言葉が聖書に記載れています。例えば、寛容や情け深さなどです。これらの徳は決して人の弱みを見ることはないでしょう。
神の愛(アガペー)
そしてさらに上位概念に行くと、最後は神の愛(アガペー)にいきつきます。なぜなら神の愛こそがすべての良いものを包括しているからです。しかし、この崇高な神の愛という抽象度の高い概念から実生活で生きるための具体的な言葉に引き出すことは容易なことではありません。
なぜなら、教会では「隣人を愛しましょう」と言いますが、もっと具体的な言葉に落とし込まないと実行するのはなかなか難しいと僕自身が感じているからです。
実生活への行動へ落とし込む
ではどうやって神の愛から実生活への行動へ落とし込んでいけばいいのでしょうか?僕は2つのアプローチがあると思っています。今日は大切な方を先に書きます。それは非常に教科書的ですが、聖書を読み、聖霊によって教えてもらうということです。言い換えれば御霊に導かれる生き方をすれば、神の愛を実生活で実行していくことができます。
とは言っても、僕は決して時々刻々と御霊に教えられているわけではありません。むしろ、多くの場合、自分の感情や理性で意思決定してしまうことが多いと感じています。
イエス様の十字架の愛は現実的に起きたこと
しかし、そういった弱さをもっていても大丈夫だと思っています。なぜならイエス様を見上げることができるからです。聖書の言葉は抽象度が非常に高いです。しかし、その一方で、イエス様の十字架の愛は現実的に起きたことであり、極めて具体的です。むしろイエス様がこの地上でされたことは神様の愛を具体的に人類に示すためであったと思います。
イエス様の十字架に立ちかえり、イエス様を見上げる時にイエス様は教えてくださると信じています。