1日の積み重ね
僕はずっと自分の信仰に対して楽観的でした。それは「今はこのような信仰だけれど10年後、20年後にはきっとクリスチャンとして宣教の実も御霊の実も結んでいるだろう。」というものです。もちろん、主は恵みによってそれを成し遂げて下さるかもしれません。しかし、普通に考えればわかる厳然たる事実があります。
それは、10年、20年と言えども、1年、1日の積み重ねだということです。つまり、平たく言えば、10年後は今日生きた1日のとおりのまんまということです。
ウルトラCのイベント
実際は1日といってもばらつきがあるので、1週間の単位でとらえたほうがいいかもしれません。もし、この1週間、僕がイエス様と共に歩まず、主との深い交わりのある時間をとらず、霊的な生き方をしていなかったら、10年後も20年後もずっと同じだということです。
しかし、僕はよくウルトラCのイベントをどこかで心待ちにしていたのだと思います。例えば、人生を変えるような非常に恵まれる礼拝や祈りの時間などです。しかし、その希望の方向は完全に間違っていることがわかります。なぜなら、希望を置くべきはイエス様ご自身だけであり、実際的なイベントやブレイクスルーさせる霊的なイベントではないからです。
小さな今日一日も主に全き信頼をおく
主だけに望みを置くのが正しい生き方です。もし、それが本当にわかっていれば、奇跡的なイベントに望みを置くことなく、この小さな今日一日も主に全き信頼をもって希望を置くはずです。
来年の僕のチャレンジはこれになるような気がしています。言語化すればこうなります。
「10年後の自分の姿は今日一日自分が生きた姿と同じ」
そう思えば体が震えてしまいました。僕は今年38歳で霊的に成長できる伸びしろは年々少なくなっていっています。若ければもちろん伸びしろはあります。若さゆえの心の柔らかさや純粋さ、いい意味での無知さをもっています。主にあって変えられるポテンシャルも秘めています。
今日一日をどのように生きたか?
だからこそ、今一度「今日一日をどのように生きたか?」と自問して、10年後悔いのない生き方を主にあってしたいと願っています。それは肉によってはできません。しかし、主にあって、主の恵みによってできると信じます。