1365_人はある人が裁かれるべき最もな理由を見つけて裁く。しかし、神は…

ある人がある人に対して批判的

昨日は悔い改めについて書きました。今日も続けます。教会生活を送っているとある人がある人に対して批判的であるという場面を見ることがあります。むしろ結構あると思います。特に深刻なのは関係が悪いまま数年、あるいは何十年も経過してしまう場合です。

当事者になればいざ知らず、客観的に横から見ていると、そんなに苦々しい思いに認知を占有されていること自体が無駄でしかないと思います。無駄であるどころか悔い改めは神様との関係の土台になるものなので、神様が与えようとして下さっている霊的な祝福を逃してしまうことになります。

もったいないと思っていた

僕はそういった人を見るたびに本当にもったいないと思っていました。しかし、ある時、僕は気づかされました。それはそんなことを思っている僕自身がその人を裁いてしまっているのではないか?ということにです。

確かに、誰がどう見ても軋轢があるし、批判的だし、それは客観的な事実かもしれません。しかし、それは人間の目から見た時です。最も大切なことは、誰でも神様に赦されて生きることができているということです。

その人のために祈ろう

僕自身もそうでしょう。自分が意識できていないだけで、誰かに「もったいないな」と思われていることがあるのだと思います。聖書が言っているように自分の目にある梁には気づかないものだからです。そう思わされた時にこう思うようにしました。

「確かに客観的な事実はそうかもしれない。しかし、誰でも神様に赦されて生きているんだ。それは僕も同じ。僕がその人のことをとやかく言うことではない。むしろ、その人のために祈ろう。」

そう思った時にその人に対する思いやりの心、その批判的な気持ちから早く解放されてほしいという思いがやってきました。これはきっと天の父がそのように思ってくださっているのだと思います。

その道を離れて生きるのを喜ぶ

聖書にはこのようにあります。

あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。
エゼキエル書 33章11節

これが神様の御心です。人はその人が裁かれるべき最もな理由を見つけて裁きます。しかし、神は裁くよりも、その人が罪から解放されることをもっと強く願っておられるのだと思わされました。

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