1271_正しく生きられていると思っている1か月に何の価値があるのでしょう

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余計なもの

信仰生活を送っていると、どうしても余計なものが入ってきてしまいます。余計なものとは自分自身にほかなりません。神様に完全により頼むことが勝利の信仰生活の秘訣だとわかっていても、生活の中で、様々な状況や場面において、自分が入ってくるのです。

僕の場合ですと、主の前に聖く歩みたいと思えば思うほど自分の力が入ってしまい、自分の努力のいかんによってそれをやろうとしてしまうのです。恵みから律法主義におちてしまう典型的なパターンです。

自分自身に対して律法主義

もちろん、これは誰かに対して律法主義なのではなくて、自分自身に対して律法主義になってしまっているのです。「何かを主のためしたから喜ばれる。」とか「自分がこういう状態だから主に受け入れられている。」とかのマインドになってしまうのです。

そうなると、イエス様の十字架の恵みから落ちていることになります。無自覚の律法主義になった僕の場合、御言に生きるにも祈りに生きるにも賛美に生きるにもある特定の期間だけに限定されてしまうことが多いです。恵みの中を歩んでいる時は勝利できるが、それ以外は負けてしまうのです。

勘違い

勝利できていると思っている期間が数か月続く場合もあれば、数週間で終わる時もあります。そして、その時は本当に自分が主の前に喜ばれるように生きることができていると思っているのです。しかし、実はそれ自体が自分の力で頑張っている証拠なのかもしれません。

というのも、主は絶対的に聖なるお方ですが、そもそも人類に義人はいません。なのに、自分が何か行いによって聖なる者とみなされていると勘違いしてしまっていることがあるのです。

どれだけ主のことを思って生活してきたのだろう

仮に1か月主の前に自分が正しく生きられていると思うことがあるとします。(実際は自分が勘違いでそう思っているだけであって実際は神様の赦しの中で生きているのにすぎないのですが)

しかし、その正しく生きられていると思っている1か月に何の価値があるのでしょう。僕はこの1年、365日、24時間、どれだけ主のことを思って生活してきたのだろうと思わされました。ほとんどは自分のやりたいことを考えて、思い、自分のやりたいことをやっていたように思うのです。

自分に死ぬとうこと

そう思った時に、自分のこれまでの信仰生活は本当に無駄だと思うようになりました。それは決して投げやりや自暴自棄ではなくて、自分が自分の力で生きる信仰生活は意味がないと思ったということです。自分に死ぬとうことはそういうことに近いのかもしれないと思いました。

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