信仰は成長する?
信仰は成長するものだという先生もいれば、信仰は成長するような性質のようなものではないという先生もいます。後者は「神様を信じる」ということはそれ以上でもそれ以下でもないということなのだと思います。
それぞれがそれぞれに正しいのだと思います。しかし僕は前者の考えを積極的に信じることにしています。信仰は信仰から信仰へと成長していくものだと理解しています。
その理由としては、神様のとの関係が親密になればなるほど、また神様と共に様々な経験をして困難を乗り越えると「以前主はああして下さったから、今回もしてくださる」という確信が生まれるからです。
信仰は賜物でもある
ですから主との関係が親密になればなるほど、また主と共に歩む時間が長くなればなるほど信仰は成長するものなのだと思っています。また信仰は賜物でもあると聖書にあるので、信仰は神様が与えてくださるものだとも理解しています。
またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物
コリントⅠ12:9
昨日はいつものようにお風呂に入ったあとに電気を消して跪いて全裸で祈っていました。その時に信仰がやってきたことがありました。それは僕はこれまで自分が住んでいる地域や教会に救いが来ると信じていたつもりでした。
実は信仰がなかった
しかし、より突き詰めていくと、見えるものを見てしまって言葉にはしないにしろ、心の中で「無理かもしれない」という不信仰があったことを思いました。その時に、「いや、そんなことはない。主は僕を救ってくださったように、この地域にも救いがくる。」と宣言しました。
それから、教会のCSの子供たちの名前をあげて「あなたは必ず〇〇君を救ってくだださる」、「あなたは必ず〇〇ちゃんに出会ってくださる」と祈るようになりました。
信仰の賜物がほしい
今回の祈りで僕は信じていると思っていても、実際は信じれきれていないことがまだまだ多くあると思いました。だから、コリントⅠにあるように信仰の賜物を与えてくださいと主に祈り求めることもしようと思いました。