1188_宗教活動継承はできるが信仰継承はできない

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「信仰継承」という言葉

キリスト教界隈ではよく「信仰継承」ということが話題になります。親の世代から子の世代へと信仰を引き継いでいく。逆から言えば子が親の信仰を受け継ぐということになります。でも、これは以前も指摘していますが、非常におかしなことです。そもそも、信仰などは継承することはできません。

書籍名を覚えておらず恐縮ですが、その書籍にも信仰は継承できるものではないと記載されていました。しかし、教会や教団のレターなどにはやはり「信仰継承」という言葉が頻繁に出てくるのです。少子高齢化が加速し、縮小していくキリスト教会において、「今こそ信仰継承!」といった具合です。今日はこの言葉に関して持論を展開しようと思います。

宗教活動継承

まず、信仰継承はできませんが、宗教活動継承はできます。これは目に見えるものなので正直親が子に期待するものです。しかし、宗教活動継承は本物の信仰ではありません。あくまでも宗教活動をしているだけなのです。信仰とは、イエス・キリストとの個人的な出会いのことです。

信仰継承がなぜできないのかを例を出して説明します。例えば僕に山田君という非常に仲のいい友人がいるとします。子供に山田君と仲良くなってくれと懇願したところで、子供は山田君と仲良くなることはできないでしょう。なぜなら、人間関係とは個人的なものだからです。山田君自身と子供がお互いに関心を持ち、交流を深めることによって関係が構築されるのです。

つまり、親の人間関係を子供に継承することはできないということです。唯一できることがあるとすれば、子供に山田君に会える時間をたくさん上げる。山田君のすばらしいことを子供に伝える。などがあるでしょう。

小さな予感

そうしていると子供にも小さな予感が生まれてきます。イエス様は本当に生きているのかもという予感からやがて実感に変わります。そしてイエス様に個人的に出会うことによって確信に変わるのです。それは非常に個人的で心の中で起きる霊的なことです。親ができる最大のことと言えば祈ることだと思います。

僕自身がそうでした。親の信仰は本物だと子供ながらに思っていました。決してこれは宗教活動ではなくて生きたキリストが両親にはついていると思っていました。そして、そのキリストに自分自身も出会いたいと思った時が僕にとっての山田君に会いたいだったのです。子供に予感さえ与えることができれば、時至れば子供は自分自身でキリストを求めるようになるものだと思います。

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