恵みとまことを受けるに足りない者
僕はヤコブのこの御言を心に留めています。
あなたがしもべに施されたすべての恵みとまことをわたしは受けるに足りない者です。
創世記32:10
今の僕があるのはすべてイエス様の救いがあったからです。かつて僕が何もかも行き詰まって苦悶していた時にイエス様が目を留めてくださったからです。また、僕がまだ罪人であった時に僕を命を捨てるほどに愛してくださったからです。そしてそれ以来、ただただ恵みによって生きてきました。
彼らは自分のつるぎによって国を獲たのでなく、
また自分の腕によって勝利を得たのでもありません。
ただあなたの右の手、あなたの腕、
あなたのみ顔の光によるのでした。
あなたが彼らを恵まれたからです。
詩編44:3
救いがなかったら?
時々、イエス様による救いがなかったら?と思うと恐ろしくなることがあります。僕はこの地上に生まれて物心がついた頃にはすでに生きることが面倒だと思うようになっていました。将来に対して悲観的で、自身に対しては無頼的で、無気力でした。結局何をやっても無駄みたいな感じで生きていたので、きっとその日その日を刹那的に生きていたんだろうと思われます。
母親の家系の遺伝でお酒にはめっぽう強くてアルコール中毒になるほど毎日お酒を飲んで生きていたかもしれません。きっと自分というものをもたずに流されるがままに流れて路上生活のようなことをしていたのではないかととも思われるのです。これは決して誇張でもなんでもなくて、自分自身を知っているのでそうだろうと思っているのです。
主にあって取られることも喜ぶ者でありたい
今僕にあるものはすべてイエス様の恵みによって与えられたものです。だから、常々考えているのは、持っているものがいつ取り去られてもおかしくないということです。それは主がすべての主権をもっておられるからです。
だから受けることだけに対して喜び、感謝するのではなくて、ヨブ記にあるように「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな。」と言える者でありたいと自分の肉の欲望を注視して気をつけたいと思っています。肉によれば「なぜ?」が出てきますが、霊によれば主に従うことができます。
主についていくということ
もちろん、主はやみくもに「取り上げる」ということはなさらないお方です。それが僕にとって必要だと判断される時にそうされます。主が進めば進み、主が止まれとおっしゃれば止まり、それを捨てなさいと言われるならばすぐに捨てる者でありたいです。