きよめがクリスチャン生活の基本
最近、祈ったり聖書を読む中で教えられていることがあります。それはきよめについでです。もう数日で日本における年度が変わりますが、今年は自身のきよめに注力していきたいと思っています。もちろん、きよめは主ご自身がしてくださるものですが、僕自身も日常生活において、祈りや御言においてだけでなく、生き方における姿勢において積極的に能動的に主体的にそのきよめの技にかかわっていきたいと思っています。
なぜなら、きよめはすべてのクリスチャン生活の基本となるからです。日々の仕事や家庭や地域でのこと、あるいは教会での奉仕や伝道の働きなど、どれだけ知識や経験があったとしてもきよめなしには主の御心に沿った生き方をするのは難しいからです。
クリスチャンがきよめられるのは当然のことだが、、
聖書にはこのような言葉があります。
従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
ペテロの第一の手紙 1:14-15
天の父もイエス様も聖霊も聖なるお方です。だから主に似た者になるというクリスチャンの生き方がきよめを求めるのは当然のことだと思います。しかし、僕はこのことを認めなければいけません。それは恵みや祝福を求めるだけで、きよめにはそれほどあずかりたくないと思っていることを。
きよめられたいけれど、ほどほどでいい。自分の好きなところや譲れないところに関してはきよめられたくないと思っていたのです。
きよめられたい願望
しかし、主から様々なチャレンジを受ける中で、主にあって完全にきよめられることを目指したいと思うようになりました。それは主の十字架の偉大な愛をさらに深く知ったからだと思います。僕がはじめて主に出会った頃は完全なるきよめを目指してあらゆるコンテンツから身を避けることをしました。本当にこのイザヤ書の言葉を心に留めて実践していたのです。
去れよ、去れよ、そこを出て、
汚れた物にさわるな。
その中を出よ、主の器をになう者よ、
おのれを清く保て。
イザヤ52:11
当時は占いものはもちろんのこと、魔法系も駄目だったので、僕はハリーポッターすら見たことはありませんでした。
妥協の連続であった
しかし、いつしか、成長するにつれ、「これくらいいいよね」とか「そこまでしなくてもいいだろう」とか「これは例外」とか都合のいい言葉で、自分をきよめることをないがしろにしていたのです。
それからもう何年もたってしまいましたが、今年はもう一度、主のきよめにあずかるチャレンジを受けてきよめられることを求めていきたいと思います。