初代牧師先生について
先日初めて母教会の初代牧師先生の説教を音声で聴きました。僕が5歳くらいの時に初代牧師先生が昇天されたので記憶はほとんどありません。どのような説教をされていたのか?とかどのような先生だったのか?などもほとんど知らなかったのです。
先生を知っている人がみんな口をそろえて言うのは、ただただずば抜けた器であったということです。神が用いられたその器から何百人という人が救われただけでなく、何十人もの牧師先生を全国に遣わし多くの教会が生まれたそうです。
男子便所でのやりとり
僕と先生との唯一の個人的なやりとりはたった一度しかありません。それは僕が教会の男子便所で小便をしている時に先生が入って来られて、二人並んで小便をして話しかけてくださったことです。これから何百人を前に説教する人が気さくにもこの小さい子供にも関心を持って話してくださったことに子供ながらに感動したのです。その光景は今でも鮮明に覚えています。
5歳なので説教もまともに聴いていないし、そもそも理解もできていなかったのですが、先生の振り絞るようなしわがれた声は覚えています。記憶に残っているのは先生のガラガラ声の「ザアカイさん」という言葉だけでした。
喜びに満ちた礼拝
そんなことで、僕はこれまで先生の説教はきちんと聴いたことがなかったのですが、母からYoutubeのリンクが送られてきて初めて聞くことができたのです。まず賛美ですが、すごい熱気が伝わってきました。楽器はアコーディオンだけですが、会衆の救いの喜びに満ち溢れた様子がすごく伝わってきました。改めて、救われた者はここまで喜ぶものだ。そしてその喜びを隠しておく必要もないと思いました。
続く説教も夢中になって聴きました。それはまことに聖霊に満たされた人の説教でした。落語のような語り口で聴く者をひきつけます。例話が豊富で適用が現実的で「うんうん」と頷きたくなるようなものばかりでした。そして、人情味に溢れる内容でありつつも、聖書の本質をまっすぐ貫いていました。
感情と聖霊はバッティングしない
僕が意外だったのは、最近の説教の傾向と比較した場合、かなり人情的であったということでした。しかし、だからといって人間的であるわけではありません。人情的でありつつも聖書的だったのです。このバランスを絶妙に保っているのは聖霊に満たされた説教者であるからだと思いました。
今はまだうまく表現できないのですが、僕が思っている以上にクリスチャンは人情的であるべきなのかと思いました。なぜなら、人は霊によって動かされるものでありつつ、感情でも動くものであるからです。そして、感情は聖霊とバッティングするものではありません。なぜなら、イエス様自身が地上で歩まれた時に喜怒哀楽を表現されていたからです。
神様は人間を通してでしか福音宣教ができないというこは、まさにそういうことなのかなと思いました。