クリスチャンが魂の健康を維持するためには、自分がどのようなところから救われたか?を日々忘れないようにすることが大切だと思っています。なぜなら、人はすべからず忘れる生き物だからです。もし、魂の救いという最も価値のある神様の恵みを忘れてしまうと、日々の生活にも感謝がなくなり、今自分が持っているものは自分で得たものだと大いなる勘違いをしてしまうことになりかねません。
それはクリスチャンにとって非常に恐ろしいことです。なぜなら、罪のゆるし、魂の救いこそが人間と神様との関係の最も基本的なものだからです。僕は本当に愚かで神様の救いの恵みを忘れやすい者ですのでいくつか忘れない工夫をしています。
定期的に決めた御言を音読する
一つ目は聖書の御言に定期的にアクセスすることです。僕にとって救われた時に立ち返るのに最適な御言はいくつかあります。一つ目はこれです。
しかし、今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに、どうして、あの無力で貧弱な、もろもろの霊力に逆もどりして、またもや、新たにその奴隷になろうとするのか。
ガラテヤ4:9
救われる前、イエス様に頼って生きる前は本当に無力で貧弱な者でした。心が貧しかったので人に迷惑ばかりかけるような生き方でした。二つ目はこれです。
その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。
ローマ6:21
この御言も僕を救われた時に戻します。なぜなら、救われる前には恥の実しか結んでいなかったからです。
聖書の人物に投影する
先日は説教でゲラサ人の地にいた人の話でした。この人は精神異常者で、墓場に住んでおり足かせや鎖でつながれいましたが、それを引きちぎって日夜身を傷つけて叫んでいたようです。しかしイエス様に出会うことで解放され神様の御言を伝える者になりました。
僕がこの精神異常者に自己投影すると言っても僕がかつて墓場に住んでいたり、身を傷つけたり叫んでいたわけでもありません。しかし、僕の心は貧しく墓場に住んでいるようなものだったのです。様々なものに捕らえられており、さながら心は足かせや鎖でつながれていたような者だったのです。心はいつも救われたいと叫んでいたのだと思います。
ところが、、
しかし、僕もこのゲラサ人の地にいる人のように、イエス様に出会った時に解放されました。
ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、 わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。
テトスへ3:4-7
いつでも御言こそが自分を正しいところに導いてくれますから感謝です。