昨日までの常識
昨日までの常識が今日の常識とは限りません。1年前、急遽大量のミサイルがウクライナに打ち込まれたことにより、戦後の常識が覆されてしまいました。戦後約70年間、大国による一方的な武力による現状変更がなかったからといって、それが永遠に続く保証はどこにもないのです。人間の平和への強い渇望や知恵、叡智によって作られたものは簡単に破壊することができることを証明してしまったのです。
西側諸国は、その既成事実を覆すべく必死になっています。そうしなければ、長い時間をかけて主権や自由や民主といった価値観や国際的な秩序が完全に崩壊してしまうのです。
理解できないこと
日本においても同様です。多くの人は北朝鮮から弾道ミサイルが飛んできても「またやってるわ」くらいの感覚になっていると思います。ウクライナの一件で明確にわかったことは、昨日までは、たまたま本土に落ちてこなかっただけで、今日は落ちる可能性があるということです。
日常生活を送っていると、理解のできないような行動をする人がいるのに気づくことがあります。それと同じようにいつの時代にも理解できない常軌を逸したリーダーがいるものです。そして、その相手にとっては、僕自身が理解のできないような奴なのです。身近に起きる人間関係の不和から国同士の争いの根源はすべてそこにあると思います。「理解して、理解される」という原理原則が人間にとってはとても難しいのです。
だから、ウクライナとロシアで起きていること、北朝鮮とアメリカで起きていること、中国と台湾でおきていることは全く他人事ではありません。自分の周りでもそれの縮小版が起きているからです。相手をそもそも理解する気もない前提で、何でわからないんだ!と思うのです。
主観的であっては理解できない
なぜ理解できないかというと、バックグラウンドも経験も思想も環境も異なるからです。もし、二人が向かい合っている状態で一方が右と言っても、一方にとっては左なのです。それは主観的なものです。そういった時に必要なことは絶対的に変わらないものを尺度にすることです。もし一方が東といえば、もう一方にとっても東です。人間の相互理解には原理原則や絶対的な原則や変わらないものが必要なのです。
そのために、神は真理である聖書を人類に与えてくださいました。それだけでなく、イエス・キリストをも人類のために捧げてくださいました。しかし、僕たちは多くのキリスト教国が争っているのを知っています。それは、ただたんに聖書の言葉を知識として知っているだけで、「行っていない」からです。
僕自身も同じように聖書の言葉を知っているだけなら、今大国間で起きていることと同じことをしてしまうでしょう。しかし、自分を捨てて、神の力に満たされて御言を行える者でありたいです。