礼拝で
礼拝で神様の深いご臨在を感じる時、いつまでもそこにいたいと思うことがあります。中国にいた時、4日連続のクリスマス礼拝が終わった一年の最後の礼拝の時はいつも夜の23時頃まで礼拝をしていました。それでも、誰も眠たいとか帰りたいとか言いいません。みんな礼拝を終わらせたくない、帰りたくないと思っていたのです。牧師先生も帰りたくないと言っていたのがとても印象的でした。
日本にいた時も同じような経験をしたことが何度もあります。愛に溢れていて、まさに聖書の言葉にあるように、「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。」をそのまま現したような体験でした。それが別に特別な集会じゃなくても、またキャンプなどじゃなくても、主は時に深い臨在を現してくださいます。
深いご臨在の中で
そういった体験をする時に残念ながら思うことがあります。それは、「あー明日から仕事だ」と。どれだけ恵まれた集会にいても必ず現実が待ち受けているのです。それがつらいと思ったこともありますが、逆に力を頂いたから明日から主とともに頑張ろうと奮起したこともあります。
しかし、できることなら、願わくば、このような主のご臨在をずっと感じていたいというのが本音です。しかし、それは遅かれ早かれ、信仰のマラソンを走り抜くことができたなら、残り数十年で味わうことができるのです。つまり、この地上での役割を終えて主の御もとに行く時に、栄光ある体でよみがえり、ずっと主を賛美することができるのです。
いつでも与えられるお方
聖書の神様は愛と恵みと祝福に満ちたお方です。またすべての豊かなもの良きものを持っておられ、いつでもそれらで僕たちを満たすことができるお方です。そして、決して出し惜しみされる方じゃありません。もし、自分がほしいのに満たされてないと思うなら、それは神様があえてそうされていることなのです。決して嫌がらせて出し惜しみしているのではなく、「与えるべき完璧な時」を完全に支配されているからです。
もしかしたら、それを与えられると、神様から離れるかもしれません。もしかしたら、高ぶったり、高慢になったりするかもしれません。だから、神様は僕たちのことを思って今与えてくださらないことがあります。それも神様の大きな愛の現れです。
地上での役目を果たしつつ
もし、毎日神様が深いご臨在を現してくださったら、僕は働くことが馬鹿らしくなって働くことをやめてしまうかもしれません。だから、この地上での勤めをしっかりすると同時に神様を求めます。そして、時に将来与えられる栄光の体の前味を味わせてくださるのだろうと思います。