義認信仰は容易?
クリスチャンにとっても当たり前のことですが、クリスチャンは行いによって義とされることはありません。また、行いによって神様が豊かに働かれるかどうかが決まるわけでもありません。ただただ、一方的な神の恵みにより義とせられ、神の御心に従って働かれるのです。
頭ではわかっていても、この恵みの原則に立ち続けるのは、なかなか容易なことではありません。なぜなら、イエス・キリストが肉体をもってこの地上に来られた時、この恵みの原則に多くのユダヤ人が躓いたからです。
救われた当時は恵みによって義とされていることを確信できていても、信仰生活が長くなってくると、あたかも行いによって義とされると勘違いしてしまう弱さが人間にはあることを認めないといけないと思わされています。
義認信仰に立ち続ける
もし、キリスト教の集会に参加することや奉仕すること、あるいは献金することによって義とされるのであれば、キリストの死は無駄になってしまいます。もちろん、今述べたこともすべて重要ですが、もし、恵みからもれた状態でそれらに取り組むならそれは、神様が喜ばれるものじゃないかもしれないのです。
行いによって神様に認められると勘違いするだけでなく、時には自分の行いによって神様の働きが左右するとさえ思ってしまうこともあるかもしれません。神様が働かれたのは「普段から聖書を読んでいるからだ」とか「普段から神様と親密な交わりをしているからだ」と思うのであれば、それも恵みからもれてしまっています。
自分だからという理由
もし、そのような気持ちになってしまうのであれば、それは人間側の高慢にすぎません。神様は憐れもうとする者を憐れむお方です。もし自分を通して神様の特別な恵みや祝福や働きがあったとしても、それは自分が理由じゃありません。神様が主権をもっておられるからです。
僕にはそういった弱さがあるのを知っています。油断すると行いによって義とされるかごとく考えたり行動したりすることがあります。また、自分だから神様が働かれたとか思ってしまうことがあります。
神に栄光を帰す
昔Twitterをやっていた時に、「おかしなキリスト教表現」というのをツイートしていた人がいました。その人は、「神に栄光を帰する」という言葉に対して、そもそも、栄光は神様のものだから帰すという表現自体がおかしいと言っていました。「神の栄光を自分のものにしているの?は?」みたいな感じで書いていました。
僕はその人の考えに同意できません。なぜなら、神の働きの栄光を自分のものにしたいという肉の弱さがあるのを知っていからです。だからこそ真実な心をもって「神様に栄光を帰す」ということができる者になりたいと思っています。
そもそも、本当の神の子は、自分が大切じゃありません。なぜなら、神の愛に満ち溢れているからです。自分がどうのこうのというのは些末なことであり、神様に栄光があることだけを望むからです。だから、このように祈りたいです。