全く反対の意見
どちらも専門家なのに、全く正反対のことを言っているということはよくあります。例えば、今日本国内で問題になっている円安や悪い物価上昇などエリート中のエリートの方の間でも考え方が色々あります。金融緩和継続を堅持すべし、いや緩和を止めるべきだなど全く反対の意見があります。
個人的にはダイエットの方法で困惑したことがあります。「筋トレは有酸素運動の前がいいのか?後がいいのか?」という問いに対して、Youtubeなどでは様々な専門家(スポーツトレーナー、スポーツ選手、大学教授、柔道整復師など)が学術論文などを引用して持論を展開しています。
どの専門家も豊富な知識を持っていて、欧米の学術論文を引用しているのに、なぜ全く反対の意見が展開されるのか?ということを疑問に思ったことがあります。
反対意見がある理由
全く反対の意見があるということの理由の一つに、「どちらも間違っていない」ということがあると思います。もう一つは「人間はこの世界のこと、人間のことをわかっているようで実はほとんどわかっていない」ということもあると思います。
例えば、クリスチャンの中で「聖書が大切だ!」とか「いや祈りこそが大切だ!」という意見がある場合、どちらかが間違っているわけではなくて、どちらも間違っていないというのが事実だと思います。
あるいは、「福音派こそが正当なキリスト教だ!」とか「いや、ペンテコステ派こそ使徒行伝を生きるキリスト教だ!」という意見もあるでしょう。こちらも、どちらが間違っているわけではなくて、どちらも間違っていないのだと思います。
あまり知らない
哲学者ソクラテスは「無知の知」ということを唱えました。自分は知らないということを自覚するということです。聖書にもこのような言葉があります。
もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。
コリントⅠ8:2
実際、人間は、この世界のことも、自分自身のことすら、よくわかっていないということは自覚していると思います。しかし、わからないからこそ、何かを信じないといけないのです。それがその人の信念になります。ある人は自由民主主義を信じる。ある人は社会主義を信じる。ある人は金融緩和継続を信じ、ある人は信じない。結局は信仰の問題になるのだと思います。
人の言葉
人間の言葉は本心からではなくて、何か裏がある場合があります。いわゆるポジショントークと言われるものですが、自分の都合のいいように持論を展開するのです。もしこのような無責任な言葉が溢れかえっているのであれば、命を捨てるほどにも、行動で愛を表してくださったイエス様の言葉を信じてみるのはいかがでしょうか。彼の言葉を信じる者は決して失望に終わることがないからです。
■責任ある行動を取られたイエス様の言葉は信じるに値するのではないだろうか