感覚的な祈り
僕は1日が始まると色々やらないといけないことやプレッシャーなど感じることがあります。そんなプレッシャーに打ち勝つ力がほしいと思って祈りますが、自分が思うような力が「感じられない」ことがあります。
特に仕事がある日は祈れる時間が限られているので、その時の1回あたりの祈りで粘り強く祈るということが難しくなります。時間がくると祈りを中断しないといけません。僕の場合、特に20代前半は、1回の祈りで神様が共にいてくださることが体験としてわからないと非常に不安になった時がありました。
主の言により頼む祈り
確かに主に祈る時に、主に触れられて共にいてくださることが明確にわかることがあります。ただ誤解をおそれずにいれば、時にそれほど感じれないこともあります。もちろん、粘り強く祈る時に主は必ず応えてくださる方だと思います。その時は神様のみがご存知であるので、その時を求めていのります。語ってくださったり、教えてくださったり、触れてくださるのです。
仮に祈りの中で圧倒的な平安が得られなかったとしても、必ず主の時があるから、主から見放されていると感じる必要はないと思います。なぜなら、祈りのあと、自分がどう感じてるかは関係なく、御言のとおり「主が共にいてくださるから大丈夫!」と信じることこそが大切だからです。そして、実際、1日を振り返った時に本当に主の助けがあったことを知ることがあります。
大切なことは自分の主観や感覚ではなく、また体調や状況ではなく、主の御言を信じて立ち上がって踏み出していくことだと思いました。
聖書の原則
主は愛に満ち溢れておられる方ですから、愛や恵みや祝福をしぶって取り残しておくようなことはされません。愛する子のために最善の時に、最善の者を適切な形であたえてくださる準備が完了しているのです。聖書の原則は、もし、キリストに立ち返った時に悔い改め、さらに日常的に犯してしまう罪を日々悔い改めていれさえすれば、十字架の恵みが必ず注がれるからです。
そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。
ルカ11:0-13
■自分の感覚ではなく主の主権