0322_信仰により点をひたすら打っていけば、いずれ神様の御心が立ち上がってくる

神の御心がわからない

クリスチャンあるあるで、「祈っても神の御心がわからない」というのがあります。聖書には、「わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。詩篇32:8」といった御言が多数あるにもかかわらず、時に、どの道に進んでいいかわからなくなるのです。

もちろん、人によっては明確に進むべき道が示されてその道に進んで行く方もいると思います。ただ、道が示されない時に、そういった証などを聞くと、自分ははたして確信と信仰をもって今この道を進んでいるのだろうかと心配になったりするわけです。

聖書の人物

例えば、ヨシュアはカナンの地に入るように明確に神様からの示しを受けてそれを実行しました。また、マリアの夫であるヨセフは神様からの示しで、タイムリーにエジプトに行ったりしました。聖書の中にはこのように進むべき道を教えてもらっている人物が多くいます。

一方で、モーセのようにエジプトの王子として育てられ、神のために立ち上がろうと奮起したにもかかわらず、その道は閉ざされ、荒野で羊飼いとしての働きを十数年に渡りした場合もあります。また、詩篇を書いたダビデはこのように歌っています。「主よ、あなたの道をわたしに教えてください。わたしはあなたの真理に歩みます。心をひとつにしてみ名を恐れさせてください。詩篇86:11」

「教えてください。」と神に向かって嘆願している以上、その時、彼は進むべき道がわからなかったと推察されます。偉大な信仰者であるダビデでさえも進むべき道がわからない時があったのです。

どうすべきか?

もし、今進むべき道がわからないのであれば、模範解答になりますが、ダビデが嘆願したように「主よ、あなたの道をわたしに教えてください。」と祈るのが最適解だと思います。あとは、信仰をもって、よくわからないが、進むしかないのです。一歩踏み出す時は恐れがやってきますが、最も幸いなのは一歩足を進めた時、主はその先におられる。あるいは共におられるということです。

信仰をもって、点をひたすら打っていけば、必ず主の御手の中で線となり、面となり、神様の御心が立ち上がってくるのです。それを見るには、主とともに点を大量に打つことです。

個人的には来週で36歳になります。なにかと、保守的に考えがちになってしまいますが、枠を外して、常識を疑って、よくわからなくても、主に信頼してと共に歩んでいきたいです。