0248_顔はニコニコ、心の中はムカムカ

この世の価値観

聖書で人間は罪の奴隷であると説明しています。旧約聖書ではイスラエルの民族はエジプトで奴隷として扱われており、そこからの救いがイエス・キリストの雛形となっています。エジプトは神の国と相反するこの世の中の価値観であり、この世に縛られている人間を開放するのが聖書の神の救いです。じゃあ、果たして、この世の価値観とは何でしょうか。この世の価値観から救われる必要がそもそもあるのでしょうか。

確実に言えることは、この世に溢れているものは悪いものばかりではありません。正しいこと、純真なこと、愛すべきこと、ほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあります。聖書のいうこの世の価値観とは上記の反対のものであると思います。すなわち、悪いこと、不純なこと、憎むべきこと、恥のあること、不徳なこと、嘲笑に値するものです。罪はこれらの性質をすべて包括しており、罪あるところに不純あり、恥ありとなるわけです。

罪を治めることができるか

人間は罪を隠す性質をもっています。アダムとイブが罪を犯した時、まず、あらわになった裸体を隠そうとしました。さらに、神様から逃れようとしました。聖書は人間の心についてこのように書いています。

心はよろずの物よりも偽るもので、
はなはだしく悪に染まっている。
だれがこれを、よく知ることができようか。
エレミヤ17:9

自分自身を見ても、本当にそのとおりだと思います。僕には顔はニコニコ、心の中はムカムカのようなことがあります。一貫性のある生き方をしたいからといって、ムカムカした時、ムカムカした顔になったら、社会生活は送れないでしょう。それではただの動物です。もし、一貫性のある生き方をしたいのなら、例えばムカムカの感情がやってきた時にそれを治める心を持つことだと思います。

たとえば、何かが刺激となって、いらだちや恐怖が心の中にやってくる。それを治めることができないと、頭の中がそういった性質に支配されてしまうようになります。何かをしていても、そのことが頭をよぎる。そして、早く処理しないと、心の中に根をおろし、心の中に染み付き、意識しないまでにそういった性質に支配される事があると思います。

人類初の殺人事件が起きた時、加害者であるカインに対して神はこのようにいいました。

正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません。
創世記4:7

罪は僕たちを慕い求める。しかし、それを治めることはできるのでしょうか。

罪からの開放とは

罪からの開放とはこういった性質からの開放です。以前は憎しみしかなかったが心から許し愛せるようになること。恥ずかしいことばかりしていたが、ほまれあることができるようになること、不徳なことばかりしていたが、徳のあることができるようになること、そして、それはすべてキリストにあってできるようになるのです。

罪から開放されてもなお、人間は依然弱さを抱え続けており、少しも強くはありません。「罪を治め続ける強さ」は持ち得てないのです。ですから、日々、イエス・キリストに頼って生きるしか方法がありません。それは、降参であり、恵みであり、祝福であり、感謝のある生き方です。今日も、明日もイエス・キリストを褒め称える生き方がクリスチャンの生き方です。