肉が拒否反応を起こす
キリスト教信仰は素晴らしいにもかかわらずそれを受け入れる人は多くありません。罪が赦されて汚れていた心がきれいにされること、キリストの似姿に少しずつですが変えられること、永遠の命があたえられること、そして何よりもこの世においてキリストと共に歩むことができること、すべてこの世が与えてくれない素晴らしいことです。
こんなにも素晴らしいことが自分に起こるのになぜ受け入れる人は多くないのでしょうか。それは肉が拒否反応を起こすからです。
自己否定なんてしたくない
肉はそもそも自己否定なんてしたくないものです。なぜなら、それは本能に反するからです。自己否定するということは自分がもっている安全地帯を完全に放棄して捨てるようなものです。本能は肉の自分を守るためにそれを死守しようとするのです。
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また、自分の悪いことなんて誰も認めたくありません。自己中心性を捨てたくもないし自分の弱さを認めたくもありません。また自分がもっている、大切にしている喜び、楽しみ、快楽を捨てたくもありません。
古い自分が十字架につけられる
しかし、キリスト教信仰はそれら抜きにしてありえません。なぜなら、キリスト教信仰とは「自分に死ぬことでキリストが心の内側に住まれる」という原則があるからです。キリストに従いたいと思うならば自分の十字架を負っていかなければなりません。自分の弱さ、暗さ、汚れ、罪と向き合っていかないといけないのです。
そして、この御言にあるとおり確かに古い自分が十字架につけられるというのは痛いことなのです。
ガラテヤ人への手紙 2:19-20
わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。
生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。
聖書の原則はこの肉が嫌がる
僕はこれまでこの聖書箇所を特に意識せずに読み飛ばしてしまっていました。しかし、この一文が僕の心を捉えました。
「わたしはキリストと共に十字架につけられた」
十字架につけられるという意味は何を表すのでしょうか。それは何も美しいものではありません。苦しみ、痛み、悲しみ、ののしり、あざけりなど肉が嫌がるものです。しかし、聖書の原則はこの肉が嫌がるものの中にあるのです。
しかし不思議なことにその先にあるものこそが、罪が赦されて汚れていた心がきれいにされること、キリストの似姿に少しずつですが変えられること、永遠の命があたえられること、そして何よりもこの世においてキリストと共に歩むことができることなのです。
信仰生活は長距離走です。いつまでもこの原則を忘れないように生きたいです。
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