キリスト教信仰における禁忌タブー | 「それをやっちゃぁおしまいよ」

十字架の前に立たない

キリスト教信仰では「それをやっちゃぁおしまいよ」というものがあります。どれだけ優れた賜物を持っている人でもどれほど優れた能力を持っている人でも「これをやっちゃぁおしまい」というものがあるのです。それは、一言でいうと、キリストの十字架の前に立たないということです。

これでは抽象的すぎるので具体的に書きます。どれだけ優れた賜物をもっていても高慢になったらおしまいです。どれだけ素晴らしい説教ができたとしても誇ってしまったらおしまいです。高慢、不平不満、許さない心、愚痴、人を裁く、誇ることなどをしてしまったらおしまいなのです。

働きの前にはすべきことがある

そうならないための唯一の道は「悔い改め」です。キリスト教におけるすべての働きは悔い改めから始まります。悔い改めるためにはキリストの十字架のもとへ来なければなりません。そこは当然、見苦しい苦痛の場所です。しかし、そこにこないとキリスト教における働きは何も始まらないのです。聖書にはこのようにあります。

この記事とつながる読みもの

マタイによる福音書 5:23-24
だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、
その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。

キリスト教におけるすべての働きの前にはすべきことがあるのです。

失敗を多くしてきた

こう書くのは僕自身がこのような失敗を多くしてきたからです。賛美の司会や説教など、悔い改めるべきことがあるのにそのまま前に立ってしまったことがあります。その時の気持ちは、まさに裸で人の前に立っていると思うほど恥ずかしい気持ちになったのです。これは、どういうことでしょうか。

誰も聖められなければ主の前に立つことはできません。しかし僕は悔い改めをしないで主の前にごり押しして立とうとしたのです。そして感じたことが主の前に裸で立っているという感覚だったのです。僕が覚えている限りそのような失敗をしたことは説教で1回、賛美の司会で2回くらいあります。それぞれ、もう二度と経験したくありません。

今になって肉で仕上げるというのか

どれだけ才能、能力、賜物がある人でも結局、十字架抜きにしたらすべて「それをやっちゃぁおしまいよ」になってしまうのです。パウロはこのように言っています。

ガラテヤ人への手紙 3:3
あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。

率直な厳しいお言葉。これは僕のことです。

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