1871_避けられない現実 | 霊的な戦いで失望してはいけない

表面的なぺらっぺら

僕は昨日、自己啓発によって自分を変えることと主にあって変えられることをごっちゃにしてはいけいないということを書きました。それらは現れは同じように見えるかもしれません。だから僕は自己啓発的な手法を取り入れしまったのです。

しかし、動機は全く違います。表面的なぺらっぺらのところをまねたところで深いところ、本質的なところがずれていればうまくいくはずがありません。

霊的な戦い

動機が違うだけではなく他にも違いがあります。それは肉的か霊的かの違いです。主にあって変えられることは当然霊的なことです。しかし、僕は教会での奉仕などは霊的なことであり、主にあって変えられることはどこか自分の力である程度はできてしまうと大いなる勘違いをしていたのです。

そして、霊的なことであるということは霊的な戦いもあることを覚悟しなければなりません。もし、これを知っていないと「なんでこんなことがおきるんだ」とか「やっぱりだめだわ」とか自分に絶望してしまうのです。サタンや悪の勢力は僕たちの「主にあって変えらる」という望みを打ち砕きたいのです。

怒ることおそい

僕はここ数か月、Zero Anger(怒りゼロ)というチャレンジを受けています。聖書は怒りを否定していません。怒ることがあっても日が暮れてはならないとか、そういったニュアンスで書かれています。しかし、聖書の神は何度もこのように書かれています。

詩篇 103:8
主はあわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。

出エジプト記 34:6
主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、

僕は単純に主のようになりたいので、自分自身も怒ることに対して遅くありたいと思ったのです。しかし、実際の自分は怒ることに異常に早いのです。それが僕は嫌でたまりませんでした。

絶望

そしてある時、自分がこれまでそのような起こり方をしたことがないような方法で怒ってしまったことがあったのです。僕はその自分の姿を見て途方に暮れ、ほとんど絶望してしまいました。僕はこう思いました。「情けなすぎる。僕はクリスチャン以下の気質の持ち主だ。僕には無理なんだ。」

しかし、それから心に「これは霊の戦いだからここで負けてはいけない」という声が聞こえてきました。僕はその時に「主よ。私はあなたなしでは本当にだめです。助け手ください。」と心から祈りました。

僕の怒りゼロのチャレンジは続いています。霊的な戦いであることを自覚しつつ主に助けてほしいと切に祈っています。

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