キリスト教の停滞
なぜ日本のキリスト教は停滞しているのでしょうか。霊的なブレイクスルーがされていないからでしょうか。信仰が足りないからでしょうか。神道が日本のいたるところに浸透しているからでしょうか。戦後、高度経済成長を遂げたという高慢が神を否定しているのでしょうか。はたまた、日本人が頑固で福音を受け入れない国民性があるのでしょうか。
いずれも当てはまるのかもしれません。しかし、僕が思うのは昨日も書いたとおり、少ないクリスチャンが裁き合っているからだと思います。少ないからこそ協力して霊による一致によって前進していけばいいのに、それと真逆のことをしているのです。
それは理想論だ
これは自分に対して書きますが、クリスチャン自身が普通の人のように歩んでいるのだと思います。周りの人が僕を見た時に「キリストのような者だ」と言ってくれるでしょうか。少なくとも僕の40年の人生の中でそのように言ってもらえたことは残念ながらありません。つまり、他人の評価であれ、キリストのよう生きることができていないのです。
このようなことを書くと「それは理想論だ」という声も聞こえてきます。しかし、それで納得してしまったら、いつまでたっても同じことの繰り返しです。永遠に日本にリバイバルはこないと思います。
普通の人のように歩んでいるのではないか?
僕がチャレンジを受けているのは、まさに「普通の人のように歩んでいるのではないか?」という自問から始まります。もちろん、毎週教会に行っている、お酒を飲まない、たばこを吸わない、浮気をしないなど、各種クリスチャンとしての生き方が外に現れていることがあるでしょう。
しかし、こういったことは本当に表面上のうすっぺらいことです。本質は神の愛を現わせているかにかかっています。僕は情けないながらそれができていないのです。先日も仕事ですごくイラっとすることがあり、それを態度に出してしまうことがありました。
変えられ続けたい
僕は理想論だと言われたとしても、自分が変えられ続けたいと強く願っています。なぜなら、イエス様は尊い血を流してまで僕を救ってくださったのに、天の父は尊い独り子を犠牲にしてまで僕を救ってくださったのに、未だにキリストの名に泥を塗るような生き方しかできていないからです。
今日僕はこのように祈ります。
「私はクリスチャンを名乗っていながら、何度もあなたの顔に泥をぬるような生き方をしてきました。愚かなわたしをおゆるしください。しかし、僕はそのようなところに留まることを決してしません。なぜなら、あなたは僕の最も深いところに働きかけて造り変えてくださるお方だからです。」













