1829_御言なくして祈りなし | スライムは型に入れなければ流されるばかり

自分の祈りについて

昨日は主観ではありますが、実体験から福音派とペンテコステ派の違いの一側面について定量的に書いてみました。僕はペンテコステ派の教会で救われたので信仰の起源はペンテコステ体験にあります。聖霊のバプテスマとも言いますが、祈り中心の体験です。

しかし、僕は祈りだけを極端に重視しているわけではありません。なぜなら、御言なしに祈りはできないからです。そして、祈り心なし御言もないからです。祈りは非常に個人的な体験なので多くはベールに包まれていますが、今日は自分の祈りについて少し書きたいと思います。

ずっと異言で祈るわけではない

僕は教会などの公共の場では知性の祈りしかしませんが、個人的な祈りの時には異言の祈りもします。しかし、祈りの時間ずっと異言で祈るわけではありません。異言で祈ると霊が実を結びます。そしてその結果、暗唱した聖書の言葉が聖霊によって活性化して、御言を信仰を持って宣言する祈りに変わります。

だから、ペンテコステ派の個人的な祈りがずっと異言で祈るわけではないと思っています。異言でも祈り、知性でも祈り、御言によって祈るというのが実情だと思います。僕はある時は、祈りながら暗唱聖句ノートを何冊も連続で宣言することもあります。そこに聖霊が働かれる時にその御言には力があるのを体験します。

御言にアンカーを下して祈る

なぜ、僕がこうしているかというと僕が弱い存在だと自覚しているからです。祈りだけでは危険だと自覚しているからです。僕は時に祈りが主観になってしまうことを知っています。祈りは聖霊に導かれている限り聖書的ですが、人間がいつでも聖書的であるわけではありません。なぜなら、人は日常の引力に簡単に引かれてしまう存在だからです。

だからこそ、御言にアンカーを下して祈る必要があるのです。どれだけ揺れていても、どれだけ動かされていても御言には人を堅く立たせる力があります。

聖書は型の役割を果たす

このような例えばできかもしれません。子供が遊ぶスライムを容器から出すと、ほうっておけば自由に上下左右に流れて平べったい伸びた形になります。しかし、それを星形の型の中に流し込んでしまえば、綺麗な星型になります。

聖書はこの型の役割を果たしてくれます。僕は正直スライムのようなものです。御言なしでは自由に形を変えて伸びて行ってしまいます。しかし、御言の型に入る時に僕は神の御心をしり、聖書的であることがどういうとかを知ることができます。だから、もし僕が聖書も読まずに祈り続けているなら、僕は危険な人物になることでしょう。

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