ぶどう園のたとえ話
僕はこうありたいと思っていることがあります。それは、マタイによる福音書20章のぶどう園で5時に雇われた者であり続けたいということです。この話では途方もないほどの神様の憐れみと恵みの大きさと人間社会での一般常識が激しく衝突しています。人間の頭で考えれば「普通だったらこうだろ!」が神様の目から見ればそうではないのです。
このたとえ話の概要はこのようなものです。
あるぶどう園の主人が、朝早くから働き手を雇いました。その後も、9時、12時、3時、そして夕方5時にも市場に立っていた人々を見つけ、「あなたがたもぶどう園に行きなさい」と送り出します。5時に来た人々は、ほとんど働く時間がありませんでした。
当然の反応
そして、夕方になり、主人は賃金を支払います。すると、最後の5時に来た者たちが最初に呼ばれ、朝から働いた人と同じ一デナリを受け取りました。朝早くから働いた人々は、自分たちはもっと多くもらえると思っていましたが、同じ一デナリだったため不満を言います。
しかし主人は、「あなたに約束したのは一デナリではなかったか。わたしは不当なことはしていない。自分のものを自分の思うようにしてはいけないか」と答えます。
朝9時から働いた働き手がこのような反応をするのは当然です。
先の者が憤慨するのは当然
現代に置き換えるならば吉野家で時給1000円で朝7時から夕方5時まで働いて1万円の報酬をもらうようなものです。最も忙しいお昼時にはお客さんに「遅いぞ」と怒鳴られながらもなんとか耐え抜きました。そして、身体も精神も疲れるまで働きました。実際に彼は10時間も働いたのです。
しかし、夕方に来た者は1時間しか働いていません。一番忙しいお昼時も働かずに汗もながずことすらしていません。報酬は当然1000円のはずです。そんな者にも1万円の報酬となれば、先に雇われた者は間違いなく憤慨するでしょう。
恵みに時間は関係ない
信仰生活で言うならば、僕は先に雇われた者に入るでしょう。なぜなら、僕はクリスチャンホームで育ち小学5年生で洗礼を受けたからです。しかし、それでも僕は自分が5時に救われた者でありたいと願い、そうして、本当に5時に救われた者だと思っています。
それは、神様から受けた途方もないほどの恵み、憐れみ、愛が今もなお強く迫ってくるからです。つまり、時間は関係ないのです。僕はまさに1時間しか働いていないのに1万円もらった者です。僕はこの人知では理解しがたい恵みに中に入れられていることに今日も深く感謝しています。













