1807_教会に甘えていた僕 | なぁなぁと高ぶりを手放すまで

人は時に揺れるもの

僕はいくつかの個人的な理由によりペンテコステ派である母教会から福音派の教会に行くようになりました。そこにネガティブな理由は少しもありません。僕は今もなお母教会を自分の本当の家族のように愛していますし、今行っている教会も同じように愛しています。これは確かに神様の導きから出たものであると確信しています。

しかし、たとえ基本姿勢がそうであっても、人は時に揺れるものです。最初に祈りぬいて与えられた確信は決して変わりません。しかし、時に心の中が揺れ動く中で、主は時間の経過とともにその導きの目的をいくつか教えてくださることがありました。

へりくだって自立する

いくつかあるのですが今日はそのうちの一つを書きたいと思います。主が語ってくださったことは、「僕が一人のクリスチャンとしてへりくだって自立して教会に仕えることを学ぶためだ」ということです。

僕は小さい頃から教会に通っていました。その中で僕は教会に甘えるという人間になってしまっていたのです。親しき中にも礼儀ありを完全に無視し、うちうち、なぁなぁになり、用いられることで高ぶり、オレガオレガになってしまっていたのです。

親しき中にも礼儀ありが崩壊

先日、ふとそのことに思いを巡らせた時にこのような言葉が頭に降りてきました。それは「もし、あのまま母教会にい続けていたなら、僕は生き恥を晒し続けていたことだろう」ということです。主は僕を違う教会に導くことによって守ってくださったのです。

確かに同じ教会に何十年もいるとうちうちになる可能性はあると思っています。僕は1年ほど前に牧師先生に同行して他の教会の礼拝に行ったことがありました。礼拝後にそこの教会の信徒の方と交わる時があったのですが、その教会は親しき中にも礼儀ありが崩壊していました。すごい乱暴な口のきき方をしていて不快に感じたことがあります。僕はそれを見た時に、自分も同じだったと思わされました。

信仰によって霧の中を進んでいく

主の導きはいつも最初からはっきりしているわけではありません。多くの場合、信仰によって霧の中を進んでいくようなものでしょう。しかし、御言、主からの答え、心に平安の三拍子そろっていれば、主は少しずつ、地の開けたところに導いてくださいます。

主が最初に与えてくださるのは骨だけです。一歩ずつ進んでいくうちに次第に骨に筋が生じ、肉が付き、全体が見えてくるのです。今は以前よりも今福音派の教会に衣類ことの確信が増しています。

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