1713_そこに誰もいないのに地面に頭をつけるという行動

自然と祈れる

最近少しずつ、ようやく自然と祈れるようになってきました。自然と祈るというのは、日常生活のふとした時に祈る選択ができるということです。僕の霊的な状態が不調であった時は、たとえ時間があっても、祈ることができなかったからです。

その状態にある時は、祈る時間もあるのに、ただ、だらだらとスマホを触ったり、別に緊急性も重要性も高くない読んでも大して益にもならない本を読んだりしていたのです。

あなたが必要

しかし、少しずつ、ようやく「自分すら気づいていなかった自分の渇望」を知るようになりました。それは、僕は自分が思っていた以上にイエス様を必要としていたということです。本音を言えば僕はイエス様はほどほどに必要だけど、そこまで必要としていないと思っていました。

しかし、追い詰められてどうしようもなくなったときに、僕の口から出たのは「イエス様、あなたが必要です。」だったのです。そして、別に霊的な高揚感すらいらない。僕はただ自分を救ってくださったイエス様を賛美して褒め称えたいと思ったのです。

「祈ろう」と思える

自分の奥底に隠れていた自分の渇望が顕わになってから、僕の生活は自然とイエス様中心になりつつあるように思います。たとえば、会社行く前に10分時間があることがわかると「祈ろう」と思えるようになったのです。お風呂に入る時もトイレにいる時にもオフィスにいてふとした時にもイエス様に思いを馳せるような生活になってきました。

僕が今回の変化で大切にしていることがあります。それは以前のブログにも書きましたが祈りに身体性を持たせるということです。具体的にかけば、できる限り、跪いて、頭を地面につける動作を入れるようにしたのです。

そこに誰もいないのに

もちろん、「形」は重要じゃありません。しかし、心と身体性が伴うとそれは魂によい相互作用を生み出します。ただ、目をつぶって「へりくだります。あなたこそは主。」と告白するよりも、たった一つの動作ですべてを包括的に表すことができる場合もあります。

跪くことは容易にできます。なぜなら、それは正座とほとんど変わらないからです。しかし、そのままひれ伏して頭を地面につけるという行動はなかなかできるものではありません。なぜなら、そこに誰もいないのに地面に頭をつけるという行動は信仰がないとできないからです。

心を表現するための身体性

僕は以前、マインドフルネスや他の宗教が身体性をもつ祈りをしていることに強い関心を抱いていました。僕は確かに祈る実際の姿勢に大きな効果がるのを認めます。もちろん、何度も書きますが「形」は重要じゃありません。大切なのは心を表現するための身体性です。

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