思っていませんでした
僕はこれまでずっと「主を愛して、いつも主と共に生きたい」とは思っていませんでした。むしろ主と共にも生きたいけど、自分の好きなようにも生きたいと思っていました。ある時は主と共に生きたいけど、ある時は生きたいとは思わないと思っていました。
もちろん、僕自身はそんなことは思っていないと思っていました。しかし、僕の生き方や行動はそれを否定することはできませんでした。行動は心の思いや口よりも正直です。
行動の棚卸
自分が何を考えているのかわからなければ行動の棚卸をすればすべて明らかになります。棚卸する方法は簡単です。自分が1日どのように過ごしているかを記録して客観的に見ればいいだけです。そうすれば自分が何を大切にして生きているかがはっきりとわかります。
以前僕は、別にこれくらいはいいだろうと思っていることがありました。それは別に非聖書的でもないし、罪でもないしいいだろうと思っていたのです。しかし、僕はこの事実から目をそらしていたことを告白しなければなりません。
マタイによる福音書 6:21
あなたの宝のある所には、心もあるからである。
霊と肉
話しがそれましたが、もう少し厳密に書きたいと思います。自分の霊は主と共にいたいと思っていましたが、自分の肉は主と共に歩みたいとは思っていませんでした。そして、霊が満たされたり活性化される時は主を求める一方で、肉が満たされ肉が活性化される時は自分のやりたいこと、好きなことを求めるという生き方を長い間してきました。
もちろん僕はそのような状態がいいとは思っていませんでした。だからこそ自分の信仰を変えたいと思って様々なチャレンジをしてきました。1日の中で強制的に祈る時間を天引きしたり、聖書の読み方を変えたり、どこでも祈るようにしたり、御言を宣言したり、早朝に祈るというようなこともしてきました。
形重視の信仰
しかし、気づいたことがありました。それはあくまでも形であったということにです。もちろん、それ自体に取り組むことは悪いことではありません。むしろいいことです。実際に魂が恵まれて自身によい影響をもたらしていました。
ただ、形の信仰は遅かれ早かれ形式主義や宗教的行いになってしまいます。つまり、僕は生きた主との交わりからははるか遠いところにいたのです。僕が必要としていたのは、今必要としているのは、今も生きておられるイエス様との愛の交わりです。今はただそれだけを求めて一人になって主を求めています。













